“からくり儀右衛門” 田中久重のホリデーロゴ

田中久重はその卓越したアイデアと技術で ‘‘ からくり儀右衛門 ’’ と称えられ、現代でも広く知られているからくり人形師です。

久重の出身地である福岡県久留米市では2013年~2014年にかけて『からくり儀右衛門展』というイベントが行われていたこともあり、
久重の名前は知らなくても、彼の作品である『弓曳き童子』や『文字書き人形』、『茶酌娘』などをご存知の方も多いのではないでしょうか。
この記事ではそんな田中久重についてご紹介いたします。
以下のリンクでそれぞれの項目へジャンプできます。

田中久重 生誕213周年 Hisashige Tanaka’s 213th Birthday

田中久重
このロゴでは『文字書き人形』をモチーフにして
筆でGoogleの『G』を書く人形のアニメーションを見ることができます。

東芝の創業

田中久重は偉大な発明者であると同時に東芝の創業者でもあります。
久重が創業した株式会社芝浦製作所と、藤岡市助が創業した東京電気株式会社の2社が合併して東京芝浦電気となり、現在の東芝の基礎となりました。

創立に関する詳しいお話は東芝公式ホームページ『田中久重ものがたり』に紹介されていますのでご参考ください。

‘‘日本のエジソン’’ 藤岡市助

もう一人の東芝創業者と言われる藤岡市助は、日本国内で初めて白熱電球を製造した人物です。

1881年、工部大学校の助手をしていた頃に田中久重に会い、また、その三年後1884年にはニューヨークでエジソンに会っています。
エジソンの元で電球について学び白熱電球製造に取り組んだ他にも、国内初の電車の設計・運転、国内初のエレベータの設計など日本の電気事業の発展に大きく貢献し、‘‘電気界の父’’ とも呼ばれます。

市助さんについても詳しくは東芝公式ホームページ『藤岡市助ものがたり』にて紹介されています。

田中久重の発明

久重が考案した生活利器や功績の一部を簡単にご紹介します。
発明品のデザインを見るだけでも面白いので是非画像を検索してみてくださいね。

折り畳み式の懐中燭台

江戸時代の一般的な灯りだった燭台(ろうそく立て)を分解・折り畳みが可能な形状にして、着物の懐にしまって持ち運べるようにしたものです。

・ろうそく立ての受け皿部分(土台にある穴にはめ込み可)
・土台部分(折り畳み可)
・支柱部分(折り畳み可)
以上の3つを繋げばすぐに燭台の完成。

今でこそ折り畳み傘や分解して持ち運べる自転車、コンパクトで多機能な万能ナイフなどが当たり前に存在していますが、江戸時代にそれを思いついたことに驚かされますね。

油のランプ・無尽灯

いつまでも消えない灯り、と名づけられたランプです。
60cmくらいの金属の支柱、その支柱の上部に灯芯、芯を覆うガラスの囲いでできています。

上部の芯筒をポンプのように上下して圧縮空気を作る
  ↓
圧縮空気によって下部の油槽から菜種油を押し上げる
  ↓
ヒモ状の灯芯に油が染み込み、油が続く限り燃え続ける

そうまでして夜更かしして発明をしたかったのでしょうか久重さん。
ちなみに、江戸時代にタイムスリップした現代の医師が主人公のドラマ『仁-JIN-』の中でも、手術中に暗い手元を照らすものとして無尽灯(と久重さん)が登場していました。

土御門家に入門

久重は、江戸時代の時刻の常識(日の出と日の入りを基準にしているので季節によって一刻の長さが変わる)とはまるで違う西洋時計(24時間きざみで、現代の時計と同じようなもの)に大変興味を持ちました。
そこで思い切って西洋の天文・数理を学ぶため、35歳で京都の陰陽総司・土御門家に入門します。
(ちなみに土御門家とは安倍清明の子孫であり、伊能忠敬の記事でご紹介した至時先生と暦の改定について太陽暦か太陰暦かで揉めたりしていたお家です)

そうして天文家としての知識を充分に習得した久重は、嵯峨御所から最も優れた職人(御用時計師)に与えられる『近江大掾(おうみだいじょう)』という称号を与えられて名は田中近江大掾久重となり、宮中への参内も許されるほどの身分となります。

これって土御門家の人達からしたらどうだったんでしょうか。
門下生の勤勉さと才能を喜ぶべきか、一族や生え抜きの弟子でない者に追い抜かされたようでちょっと微妙な気分になるべきか。
どちらにしても、仕事の後にそこまで勉強した情熱がすごい。

機巧堂の開店

1847年(弘化4年)、京都の四条烏丸に自分の店 『機巧堂(からくりどう)』 を開き、自身の発明品やからくり人形の販売を始めました。
またこの頃、蘭学者の広瀬元恭が営む『時習堂(じしゅうどう)』に入門し、医学、物理学、化学、兵学、砲術などの蘭学を学びます。
どんだけ勉強する気でしょうか。この頃の久重さんは53歳。やっぱりすごい。

和時計・須弥山儀の完成

須弥山儀(しゅみせんぎ)は天台宗の僧侶・円通が最初に考案したものです。
円通は地動説の普及により天動説が廃れ、仏教天文学(梵暦)、ひいては仏教の権威が衰えることを懸念していました。
学問にまつわるホリデーロゴでご紹介したコペルニクスが唱えた、太陽を中心として天体が巡っていると唱えた説が地動説です)
そのため梵暦の本を記したり、模型の図案を考えて掛け軸に描いたりと仏教的な考えを一般に普及させるための工夫と努力を重ねます。

その後、円通の弟子である環中らがその掛け軸を見ながら「この模型が実際に動くものとしてあればもっと解り易いのに」と考え、当代一のからくり師と呼ばれた久重に製作を依頼します。
その依頼を受けた久重が、土御門家で培った知識と技術をフルに生かし、4年間掛けて須弥山儀を完成させました。

須弥山儀の胴体部分には時計があり、上部には須弥山を中心とした仏教の世界観を模型にしたものが造られています。
更には重錘式の時計の機構を利用して須弥山の周囲を時計仕掛けの太陽、月、星が回るようになっており、これによって1年間の太陽の動き、1ヶ月の月の動き、1日の太陽・月・星の動きを再現して天動説に即した世界観を説明できるようになっています。
考えた円通さん、それに更に改良を加えた環中さん、実際に動くものとして製作した久重さん、それぞれの情熱が身を結んだ成果ですね。
今でも動くことが確認されている須弥山儀は正立寺 蔵と龍谷大学 蔵の2基のみのようです。

須弥山と仏教の世界観

せっかくなのでここで須弥山と仏教の世界観について、私がなんとなく理解していることをなんとなくご説明いたします。
随分とぼんやりしたお話で誤りもあるかもしれませんので、きちんとした知識をお求めの方は専門書を読んでいただくか、近所の御坊さまにお尋ねくださいね。

須弥山(しゅみせん)とは

須弥山とは、仏教の世界観において世界の中心に聳え立つ巨大な山のことです。
北欧神話における世界樹・ユグドラシルの概念と近いかもしれません。
お寺の本堂の正面にあってご本尊が祀られている場所を『須弥壇(しゅみだん)』と呼ぶのはこの山を象ったところからきています。

こちらの画像はWikipedia内の須弥山の項目より、執筆者・うぃき野郎さんの描かれた図解をお借りしたものです。
須弥山
須弥山という名前はサンスクリット語のSumeru(シュメール)を音訳したところからきています。
元の言葉を意訳した場合には『妙高山』となり、こちらの名前で呼ばれることもありますね。
お墓参りの際に見かける戒名に『妙』や『高』の文字がよくあるような気がするのですが、これはこの山の名前をいただいているのかもしれません。

仏教における世界観

須弥山をとりまいて七つの金の山と鉄囲山(てっちさん)があり、それぞれの間に八つの海があるのだそうです。
これを九山八海(くせんはっかい)といい、寺社の枯山水や池の造りがこれを模したものになっていることもあります。

更に須弥山や九山八海を乗せている三枚の円盤が存在します。
(直径が太陽系くらいというとんでもない大きさなので厚みもとんでもなく、どちらかといえば円柱?)
円盤は下から風輪・水輪・金輪と重なっており、金輪の上、須弥山や九山八海の外側には東西南北に四つの島(というより大きさ的に大陸ですが)があり、南側の島が人間の世界『閻浮提(えんぶだい)』、またの名を『贍部洲(せんぶしゅう)』、『南贍部洲(なんせんぶしゅう)』です。
この閻浮提の部分のみを模型化した『縮象儀(しゅくしょうぎ)』(考案・円通さん、製作・久重さん)もあります。

『金輪際(こんりんざい)』という言葉の由来は「太陽系くらい大きな円盤の際(きわ、奥)に行くくらい」ということから「とことんまで」という意味になり、金輪際~ない、という否定形で使われることによって「決して」「どんなことがあっても」という風に現代では使われます。

須弥山の山頂には神様仏様の住む天界『忉利天(とうりてん)』があります。
更に山頂の上空、空中にも様々な世界があり、その中でも後うちょっとで悟れそうな惜しい人たちが居る世界があります。
この惜しい人たちが居るところ=有頂天、という世界です。
喜びが最高潮で浮かれている様を『有頂天』と呼ぶのはこのためです。
「もうちょっとで悟って天界に行けるかも!やったあああああひゃっほーう!!」なんて調子に乗っていては悟れるものも悟れないよ、という戒めの意味を込めた言葉なんですね。

さらに山の中腹には仏教を守護している四柱の神様が住んでいます。
東方 持国天(じこくてん)
西方 広目天(こうもくてん)
南方 増長天(ぞうちょうてん)
北方 多聞天(たもんてん)
この四柱が『四天王』と呼ばれます。

能力の優れている人や著名な人を四人挙げて『四天王』と呼ぶのはこれに由来しています。
また、聖徳太子が建立した大阪の四天王寺はこの四天王を祀ったものです。
崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の間に武力闘争が起きた際に、聖徳太子は「もし蘇我氏がこの戦に勝利したなら、必ずや四天王を安置する寺塔を建てます!」という誓願をして戦いの勝利を祈りました。
その後 無事に蘇我氏が勝利したため誓いにのっとって四天王寺を建立したと『日本書紀』には記されています。
四天王寺の金堂内には須弥壇の救世観音を囲むように四天王像が祀られています。
またこの時、四天王寺建立のため百済より招かれた三人の宮大工のうちの一人、金剛重光さんが世界最古の企業・株式会社金剛組(創立578年)の創始者となりました。

更に、四天王が居る中腹の辺りの周囲を巡っているのが日天(にってん)と月天(がってん)の二柱です。
この二柱は太陽と月を神格化したもので、仏教が地球を軸に天体が巡っているという天動説に基づいた世界観であることを如実に表していますね。

こうしてみると現代で普通に使われている言葉や、どこかで聞いた名称などが仏教に由来したものが意外と多いんですよね。
法事で御坊さまがお経をあげてくださっている間の時間が苦手な方も、そんな風に身近なものとの結びつきが分かっていれば有意義な楽しい時間になるのではないでしょうか。
(お経は有り難いのですが私は正座が苦手なのであの時間だけはなかなかの苦行です)

万年自鳴鐘( まんねんじめいしょう )

久重の発明品の中でも最高傑作と名高い万年時計で、オリジナルおよびその設計図は国立科学博物館に所蔵されています。
また、万年時計復活プロジェクトにより復元されたものを東芝が所蔵しています。

真鍮製のゼンマイを動力として、一度ゼンマイを巻けば一年自動で駆動する時計として設計されました。
ゼンマイなど1000点を超える部品から造られており、その部品のほぼ全てが久重さんの手作り。
外観も美術品として鑑賞に耐える美しさです。
万年自鳴鐘
六角柱のそれぞれの面には時計や時節の表示板があります。
和時計表示盤
季節によって昼夜の時刻の長さが変わる日本の不定時法に対応した盤で、文字盤の位置を自動で変化させることで昼夜の長さの変化に対応しています。

二十四節気の表示盤
立春、雨水、啓蟄、春分、清明、穀雨、立夏、小満、芒種、夏至、小暑、大暑、
立秋、処暑、白露、秋分、寒露、霜降、立冬、小雪、大雪、冬至、小寒、大寒。
一年を24等分して季節を表す名称を付けたもの。
今でも立春や冬至などは季節の変わり目に一般的に使われていますね。
カレンダーによってはこの二十四節気を書いているものもあります。

七曜および時打ち表示盤
短針で曜日を示し、一週間で一周するように作られています。
長針は和時計と連動して時刻を知らせます。

十干十二支表示盤
十干(じっかん)は甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸。
十二支は皆さんご存知の子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥。

この二つを組み合わせた60通りの十干十二支(じっかんじゅうにし)が江戸時代には一日ごとに割り振られており、この盤ではその一日ごとの十干十二支を自動で表示します。
1番目は甲子(きのえね)、最後の60番目は癸亥(みずのとい)。
たとえば今年、2014年は甲午(きのえうま)の年。
十干十二支の中でよく耳にするものとしては丙午(ひのえうま)あたりでしょうか。
恋した相手に会うために放火の罪を犯した八百屋お七の生まれ年が丙午と言われていることから、丙午生まれの女性は気性が激しく夫の命を縮めるという迷信があります。

月齢および旧暦日表示盤
中心の球体の上で半球を回転させることによって、その日の月の満ち欠けの見え方を表しています。

定時法による輸入の洋時計の表示盤
現代の時計と同じ、12時間で針が一周する時計です。
輸入品のスイス製(フランス製とも)懐中時計を改造し本体機構と噛み合わせています。

更にドーム状の天頂部には太陽と月の運行を示す天球儀が。
これは京都から見た1年間の太陽と月の動きを日本地図上で表しています。


上の土御門家の項でもご紹介したとおり、当時の日本において時刻とは日の出と日の入りを基準にし、昼夜をそれぞれ六等分していたため、季節によって一刻の長さが変わっていました。
対して西洋の時刻は24時間きざみで、現代の時間の考えとほぼ同じでした。
その異なる時間の計り方を機構内にぶっこんだ上で、西洋時計を歯車の回転速度の調整役にして干支やら月齢やら天球儀やらを同時に動かすというハイテクぶり。
これが造られたのが嘉永4年(1851年)、実に160年以上の昔と思うと久重さんの斬新なアイデア、金属細工技術、積み重ねた知識がどれだけのものだったかお分かりいただけるのではないでしょうか。

日本初の蒸気機関車及び蒸気船の模型

万年自鳴鐘の完成からわずか2年後の1853年、佐賀に移住していた久重は藩主・鍋島直正が治める肥前国佐賀藩の精煉方に着任します。
直正公の後押しの元、国産では日本初の蒸気機関車、蒸気船の模型の製造に成功し、更に反射炉の設計(改築)と大砲製造、佐賀藩の蒸気船『電流丸』、国産初の実用蒸気船『凌風丸』(1865年に竣工)建造に携わりました。

こちらは凌風丸を鍋島直映(直正公のお孫さん)が描いたものです。
凌風丸
その後、久重は地元の久留米藩に戻って久留米にも軍艦購入や銃砲鋳造のノウハウを伝え、更に東京に移り田中製造所を設立します。
その田中製造所が株式会社芝浦製作所となり、東京芝浦電気株式会社となり、現在の東芝の礎となりました。

知識は失敗より学ぶ。
事を成就するには、志があり、忍耐があり、
勇気があり、失敗があり、その後に、成就があるのである。

        田中久重 

一生を通じて技術の研鑽と知識の吸収をやめなかった久重さんの高い志こそが、日本における物づくりの理念であり、何事においても目指すべきところのように思います。

佐賀藩主・鍋島直正

久重さんを召抱えた鍋島直正(斉正)は『蘭癖大名』と揶揄されるほど蘭学に対して興味を持ち積極的に取り入れていました。
『蘭癖大名』は今で言えば『オランダの学問マニアなお殿様』といったところでしょうか。
司馬遼太郎の『酔って候』という短編集にも『肥前の妖怪』という直正公を描いた章があります。
名君として名高い薩摩藩の島津斉彬(直正公の母方の従兄弟でもあります)と並び称されるほどの人物です。
それにも関わらず斉彬公と比べてもあまり一般的な知名度が無いように思えるので、ついでで申し訳ないのですが直正公のご紹介を。

直正公は江戸時代末期の天保元年(1830年)、
17歳で家督を継ぎ、佐賀藩の10代藩主となりました。
なったは良いけど、大型台風による甚大な被害やら、前藩主であるお父さんの金遣いの荒さやらで、継いだ時点で藩の財政は破綻寸前。
佐賀藩にお金を貸していた商人達が直正公の大名行列を取り囲んで動けなくなったことも。

普通の17歳がこんな目に遭ったらグレてもおかしくありません。
しかしここでヤケにならなかったのが直正公のすごいところです。
まずは自分が見本となって質素倹約に努め、藩の役人を大幅にリストラし、商人達と交渉して先代の頃からの藩の借金の8割を免責させ、それでも残った2割は50年ローンに組み直しました。
血筋や家柄にこだわらずに優秀な人材を育成・登用し、西洋の知識や技術(蘭学)を積極的に取り入れました。
他にも磁器(有田焼きや伊万里焼き)・茶の栽培・石炭採掘などの殖産興業、小作料の支払免除などによる農村復興、砲身を鋳造するための反射炉(鉄を精錬する溶解炉)を筆頭とした科学技術の導入、などなど若き藩主としては有りえない勢いで手腕を発揮していきます。

そのなりふり構わぬ藩政改革により直正公は、武士たるものがお金に必死になってみっともない、という揶揄を込めて周囲から『そろばん大名』と呼ばれるようになります。
しかしそんな侮蔑もなんのその、直正公はガツガツ働いて佐賀藩の財政を見事に立て直してみせたのです。

直正公の功績は財政や軍備だけではなく医療にも及びます。
当時は不治の病と恐れられた天然痘に対する牛痘ワクチンを医師の進言に従ってオランダから輸入、自分の長男の直大で試験した後、緒方洪庵にも分け与え、これが日本における天然痘の根絶に繋がりました。
直正公にワクチンの輸入を進言した医師達が江戸に種痘医養成のための施設を設立、これが後の東京大学医学部の元となります。
更に佐賀藩医学校は、最新の技術を必要としている患者に惜しみなく提供するという理念に基づいて、直正公により『好生館』と改名され、現在の佐賀県立病院 好生館となりました。

一方、直正公が特に力を注いだ西洋技術の活用ですが、
久重らの精煉方も始めてすぐに結果を出せたわけではありません。
蒸気機関車の走るのを見て、そこから仕組みを推察して、図面をひいて実際に模型を造って…
なかなか成功しない割に費用が莫大な研究に対して藩内から無駄遣いだと批判が出た時には「俺の趣味でやってるだけだから口を出すな」と自腹で研究費を捻出してまで研究を続けさせました。
そんな藩主が居たからこそ、久重たちも存分に研究に励むことができたと言えますね。
蒸気機関車、蒸気船、西洋式のアームストロング砲・・・次々に研究は身を結び、佐賀藩は幕末の日本において一、二を争う軍事力を持つようになりました。

そこまで藩を強くしておきながらも、ひっそりぼんやりのらりくらり、幕府にも維新軍(新政府軍)にも最後まで味方せず敵にもならずに上手いことやり過ごし、その間に更に藩の力を蓄え、戊辰戦争の中盤、上野戦争から佐賀藩はいきなり参加します。
佐賀藩が手土産にした新兵器・アームストロング砲により上野戦争はたった1日で維新軍の圧勝となりました。
この後、戊辰戦争の終結となる五稜郭の戦い(箱館戦争)まで、佐賀藩の近代兵器は維新軍の大きな戦力として活躍することになります。

明治政府の中心となった『薩長土肥』といわれる薩摩・長州・土佐・肥前。
明治維新における肥前の代表として著名なのはもちろん大隈重信ですが、肥前が他藩から『倒幕運動では目立たなかったけど、戊辰戦争での近代化された軍事力といい安定した財政といい、新しい政府の中心となるべき力のある藩だ』と認められた素地を作ったのは直正公ではないでしょうか。

残念ながら明治維新が始まってから間もなく直正公は亡くなってしまいます。
そのため新時代における活躍が見られなかったことで印象が薄いのかもしれません。
歴史に『もしも』は無いと言いますが、それでももしももう少し長く直正公が生きていれば明治以降の佐賀はどうなっていたんだろう、と考えてしまいますね。

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