伊能忠敬のホリデーロゴと測量について

ホリデーロゴアイキャッチ
特別なイベントや偉人の生誕記念にたった一日だけGoogleトップページに表示されるホリデーロゴ
その中から今回は日本中を歩いて測量し『大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)』を完成させた伊能忠敬の生誕記念ロゴをご紹介し、忠敬が測量を始めた経緯と、彼の死後までを簡単にまとめています。

伊能忠敬 生誕記念

Tadataka Ino’s Birthday
伊能忠敬
こちらは2009年2月11日にGoogleトップページを飾ったホリデーロゴです。
伊能忠敬が生まれた日、延享2年1月11日(1745年2月11日)に合わせて掲載されました。
忠敬の歩みの様子と、測量器具を上手くあしらった良いロゴですね。

江戸時代に日本中を歩いて測量し、正確な日本地図を完成させた伊能忠敬。
測量を行ったのはなんと彼が55歳の時から71歳にかけて。
しかもその測量方法は歩幅が一定になるように訓練をしてから、どんな難所でもその歩幅で歩き、全員の歩数の平均値を出して距離を算出するという、気が遠くなるようなものだったそうです。
海岸線の険しい岩場でも、そこに水溜りがあっても、足が痛くなってきても、絶対に2歩で1間(約1.8m)。
それをひたすら続け、トータルすれば地球一周に相当するほどの距離を歩いたのです。
つらすぎる…改めて伊能忠敬とそれに従った隊員さん達を尊敬してしまいます。

そんな忠敬がそもそも最初に日本の測量を始めたのは、お師匠さんの高橋至時(よしとき)と共に正確な暦を作りたいと思ったことから。

忠敬と至時のある日

至時「カンペキな暦作るにはさあ、地球の大きさとか、日本の緯度経度とかが大事じゃね?」
忠敬「あー大事っすね。そんで俺こないだウチから至時先生んちまでの緯度の差が1分半って調べたんすよ。これ分かってたら、こんくらいの距離で緯度が1度とかって計算できるじゃんって感じで」
至時「いやいやいや、距離が近すぎて無理じゃね。それ基準だと地球レベルになったら誤差出まくるってヤバイって」
忠敬「まじっすか。いけると思ったのに」
至時「だったらさあ、江戸から蝦夷までの距離を測ったらいけるかもよ」
忠敬「ちょ、蝦夷とか遠すぎですって師匠。幕府の許可いるし絶対無理でしょー」

その頃の江戸幕府

幕府「なんか蝦夷のあちこちにロシア人が来た…通商しろって脅すし、勝手に島に上陸してたりするし…こっわ!ロシアこっわ!」
至時「何びびってるんすか幕府先輩」
幕府「ロシア怖い。なんか次々来る。どうしたらいいの」
至時「そんな先輩にいいニュースっすよ!これからロシアとどうなるか分かんないし備えあれば憂いなしってことで、俺と忠敬に蝦夷のちょー詳しい地図作らせてみませんか。忠敬が測量得意なんで!」
幕府「えええ、忠敬ってあのお前の弟子の?確かに地元の評判も高いし良い奴みだいだけど、あいつお前より19も年上でもう50歳くらいでしょ…体大丈夫なの?」
至時「大丈夫大丈夫まじでまじで。忠敬は頭もいいし人望あるし金もあるし大丈夫」
幕府「うーん…じゃあ測量の許可出すから、やるだけやってみていいよ。あんまり期待しないで待ってるから」

測量生活のはじまり

至時「子午線とか緯度とか知りたいっていう下心隠して幕府のために地図作るって言ったら許可くれた」
忠敬「まじっすか。幕府ちょろすぎる」
至時「1日あたり銀7匁5分の手当ても出るって」
忠敬「16,000円くらいかー…俺入れて6人の路銀とか測量道具とか考えたらかかる費用の2割くらいにはなりますかね?まあ元々全額自腹で行くつもりだったし有り難いっすわ。とりま張り切って師匠のぶんも測りまくってきますよ!」
至時「がんばれよ~俺も江戸で色々がんばるわ!」

以上、普通の文章だと長くなるのでざっくりあっさりチャラ男風にお送りしてみましたが大体こんな感じです。たぶん。
銀1匁の価値も時代により変わるので現代貨幣への換算が難しい。適当なので間違っていたら申し訳ありません。

『大日本沿海輿地全図』の完成とその後

その後、忠敬の作る地図の正確さが認められ、正式に幕府からの命により、忠敬をリーダーとする測量団の全国測量の旅が始まりました。
しかしその旅が終わるまでの間に、お師匠の至時先生は39歳の若さで病により亡くなってしまいます。
海外から入ってきた天文学書の翻訳に始まり、暦づくりの形式的な責任者である土御門家(下記参照)となんやかんや揉めたりしながらの太陰暦から太陽暦への改暦、正しい暦づくりのための天体観測、etc…至時先生は元々体が丈夫でなかったところにもってきてそんな無茶をしたため結核が悪化し亡くなったと言われています。

(注)土御門家とは
  安倍清明の子孫で、天文と暦についての一切を幕府から任されていました。
  明治維新の事後のごたごたもあってあまり資料が残っていないようですが、
  従来の太陰暦と、それを守ってきた陰陽寮の権力保持のため
  太陽暦への改変(つまり至時先生たちの事業)に反対していたのだとか。
  土御門家は“からくり儀右衛門” 田中久重のホリデーロゴの記事にも登場しますので、宜しければ合わせてご覧ください。

更に忠敬は苦楽を共にした測量隊の副隊長も旅の途中にチフスで亡くし、忠敬自身も最後の測量の旅を終えた3年後に肺を病んで亡くなります。
そんな数々の悲しみを踏み超えて、残された弟子達の手によって作成が続けられ日本最初の実測地図『大日本沿海輿地全図』は完成したのです。
地図の画像は 東京国立博物館 画像検索 などから閲覧することができます。

高橋景保とシーボルト事件

さて、残された弟子達の中には至時先生の長男・高橋景保もいました。
ある日、樺太あたりの資料を欲しがっていた景保に対して、オランダ商館付の医師・シーボルトがクルーゼンシュテルン(ロシアで最初に世界一周航海を成し遂げた人物)の『世界周航記』などをくれました。
それじゃあお返しに、と景保は『大日本沿海輿地全図』の縮図を渡してしまったのです。
景保からすれば、学術に協力してくれた友人に対する純粋な御礼のつもりだったのかもしれません。
しかしシーボルトが国に帰る直前に日本地図を持っていることがばれて幕府からは『景保が日本の防衛上の大変な機密を外国人にもらした』と見なされ、景保は投獄されて獄死し、シーボルトは国外追放になってしまいます。
これが『シーボルト事件』と呼ばれている事件です。
皆が頑張って完成させた地図が景保さんを罪人にしてしまったというのが悲しいですね。

忠敬たちの墓所

忠敬は病床に伏せりながらこんな遺言を残しました。

余のよく日本測量の大事業をなすを得たるは、まったく先師高橋先生のたまものなれば、よろしく先生の墓側に葬り、もって謝恩の意を表すべし

つまり「俺が日本地図完成という大事業を成功させられたのは全て至時先生のおかげですから、先生への感謝と恩義を込めて、俺が死んだら先生のお墓の傍に葬ってほしいなあ」という事ですね。
この遺言に従い、東京上野の源空寺には忠敬・至時・景保の墓所が仲良く並んで構えられています。
また、忠敬の生家があった千葉県香取市には伊能忠敬記念館があり、
測量にまつわるもの、伊能家にまつわるもの等、様々な企画展を行っているようです。
せっかくのゴールデンウィークですし、お近くにお住まいの方はお時間があれば是非一度訪れてみてくださいね。私もいつか行ってみたいです。

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