ざっくりした讃岐の歴史

   2017/06/13   icon-clock-o読了時間:約237分25秒

少し前にベトナムのひとに栗林公園を案内するため
栗林公園についてとベトナム語を調べまくったので、
そのついでに讃岐の大まかな歴史と、それに添って栗林公園が如何にして
出来上がっていったかを記事にしてみたいと思います。
浅学の身ですので間違いや思い込みもあるかもしれませんが何卒ご容赦ください。
あと学校で無理から歴史や古典を詰め込まれてウンザリしている学生さんにも
歴史に興味を持っていただけたら、ということで
大変軽い文体の箇所がありますがご寛恕いただければ幸いです。

そして私と同じように、県外から香川に来られた方にも、
香川の歴史を知って香川という土地に興味と愛着を持って頂けたらいいなと思います。
というか、うどんアピールが凄すぎて他の特産品や文化の印象が霞んでる気がしなくもないので
『 うどん県。それだけじゃない香川県 』(←県の観光PRプロジェクトの名前)
というのを知って頂ければ…!

ちなみにタイトルの下の読了時間のとこを見ていただくと分かるとおり、
ものっすっごい長い記事になってしまったので、(しかもこれでまだ書きかけ)
凄くお暇な時にでもお付き合い頂ければ幸いです。

Firefoxを使ってネット閲覧している方であれば
記事の中から読みたい部分を単語検索する方法はこちらを、
Webページ内で語句検索をかける方法
画像をそのまま拡大・縮小する方法はこちらをご覧ください。
画像だけを拡大・縮小表示させるアドオンImage Zoom

ちなみにそれぞれの項目名の横のカッコはサブタイトル的なものです。

 目次 

奈良~戦国時代
行基による製塩方法伝授(銘菓かまど)
讃州藤氏・綾氏と家紋(松の人気ぶり)
崇徳上皇と保元の乱(パリピっょぃ)
  ∟雅仁親王(後白河天皇)のパーリーピーポーぶりの一例
崇徳上皇の祟り(人生経験がいい歌になる)
崇徳上皇の讃岐暮らしと鎮魂(鳴くのなら追い出しちゃうぞホトトギス)
平家衰退のはじまり(強訴こわい)
  ∟鹿ヶ谷の陰謀
治承・寿永の乱(←源平合戦のこと)
  ∟多田行綱のその後
屋島の戦い(平家物語を読もう)
  ∟平家物語と弓の名手・那須与一
  ∟那須与一(扇の的)
  ∟弓流し
  ∟剣(つるぎ)
後白河上皇の不死鳥ぶり(パリピっょぃ・パート2)
鎌倉幕府の成立は何年なのか(いい国つくろうじゃないとかそんな馬鹿な)
細川氏による讃岐の支配(鎌倉→室町→戦国時代)
室町幕府は不人気?(いつかきっとベストセラーが)
室町文化がスゴイ(剣術・連歌・侘び寂びお茶と盛りだくさん)
  ∟狂言だけでも覚えて帰ってください(コント好きな方は是非)
佐藤志摩介道益による栗林公園の始まり(やっと栗林公園の話まで来た)
志摩介さんの元主・香西佳清(二つ名は“盲目の大将”)
牛鬼(うしおに)伝説と根来寺
猛将『鬼十河』・十河一存(十河を 『 そごう 』 って読めるの香川県民くらいらしいですよ)
三好氏と松永久秀
  ∟三好4兄弟
  ∟松永さんと三好三人衆
仙石秀久の失策
  ∟島津の釣り野伏せ
  ∟その後の仙石秀久

江戸初期・生駒家による讃岐高松藩の治世
生駒家への移管(若様はまだ11歳)
生駒家の後見となった藤堂高虎(孫が心配)
デキる高虎のデキる家臣・西嶋八兵衛(溜め池をありがとう)
生駒騒動(地元社員と本社から出向してきた社員との争い)

江戸時代・松平家による讃岐高松藩の治世(この紋所が目に入らぬか)
初代藩主・松平頼重(よりしげ)(水戸光圀公のお兄さん)
  ∟丸51葉三葉葵巴紋(葵の御紋・松平家バージョン)
  ∟讃岐高松藩の御庭焼き・理平焼
  ∟香川漆器
2代藩主・頼常(よりつね)(光圀公の息子は倹約家)
  ∟松平家の家宝:太刀・銘 真守造(さねもりづくり)
3代藩主・頼豊(よりとよ)(災害続きで癒やされたくて栗林公園をバージョンアップ)
  ∟塩飽水軍とこんぴらさん
4代藩主・頼桓(よりたけ)(早逝したため治世は4年のみ)
  ∟滝宮念仏踊
  ∟鷽替え神事
5代藩主・頼恭(よりたか)(砂糖を作りたい)
  ∟平賀源内と奉公構
  ∟池田玄丈と向山周慶による砂糖(和三盆)製造の道
6代藩主・頼真(よりざね)(教育と人材育成は大事
  ∟里也ちゃんの仇討ち
7代藩主・頼起(よりおき)(お金は無くても有りすぎても困る)
  ∟儒学者・柴野栗山と老中・松平定信
8代藩主・頼儀(よりのり)(踏んだり蹴ったり)
  ∟こっそり砂糖を食べるための『 あんもち(餡餅)雑煮 』
矢延平六(やのべ へいろく)について(溜め池をありがとう・2人目)


奈良~戦国時代

奈良時代の伝承から、波乱に満ちた戦国時代の終焉まで、讃岐で起きたことを少しずつですがご紹介。
また、奈良時代以前の暮らしや、現在高松市見つかっている遺跡については
高松市役所 文化財課のページにある むかしの高松
分かりやすくまとめられておりますので是非ご覧ください。

行基による製塩方法伝授(銘菓かまど)

天平の頃(729~749年)、行基(奈良の大仏の建立責任者となった法相宗の大僧正)が
仏の教えを説きながら貧民救済・治水工事・架橋工事などの社会事業をしつつ各地を回っていた際に
讃岐国阿野郡の海岸(現在の坂出市の北部)に立ち寄ったそうです。

行基が瀬戸内海の穏やかな波をしみじみ眺めていると、浜辺で海水を汲んでは天日にさらし、
また海水を汲んでは乾かし、という塩田製法で地道に塩作りをしている地元の女の子達が目に入りました。
『 ちょっ、その製法はめっちゃ手間かかるし体力いるし綺麗な塩も出来ないでしょ! 』と
可哀相に思った行基は、竈(かまど)を造り、
青松葉を燃やして海水を煮詰めて白い塩を作る方法を伝授しました。
「 行基さんマジすげえっす!ありがてえっす!この竈から煙が上がり続ける様と同じように、
  自分たちはこの塩の製法を末代まで語り伝え続けていくっす! 」
と浜辺の民はみな大喜びした、という伝承があります。

この伝承を元に 『 名物かまど 』 というお饅頭が生まれました。
香川のお土産の定番お菓子ですね。
道の駅でもJRの売店でもイオンでも、なんだったら店舗によってはローソンでも売っているので
お買い求めいただきやすい身近な銘菓。
香川県坂出市にある “株式会社 名物かまど” が製作・販売しています。

讃州藤氏・綾氏と家紋(松の人気ぶり)

1120年頃、平安の時代。
天皇の縁戚となった藤原道長が摂関政治により強大な権力を握って調子に乗って
 『 この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば 』
  (この世は俺のもの。欠けた部分などひとつもない満月のように俺の心は満ち足りている)
という有名な歌を詠んだ1018年から約100年後であり、
貴族に代わって力を持った武士が台頭し、鎌倉幕府ができる1190年頃の70年前のことです。
道長のドヤ顔

まだ貴族の権威が重んじられていた当時、田舎の豪族たちは、
貴族の、特に権力のある藤原氏との婚姻・血縁関係を得て貴族っぽい氏を名乗るのがブームでした。
(氏=うじ・今で言う名字とは少し違う。その血族だけでなく、
 どこそこの家に属している者です~と家臣も同じ氏を名乗るので被りまくる)

さてそんなご時世に、讃岐国の阿野郡新居郷(現・高松市国分寺町新居)を中心として治めていた
綾貞宣綾大領貞宣(あやのかみ さだのぶ)という豪族が居ました。
大領は『 かみ 』と読む役職名です。
国を治める『 かみ 』が 『 守 』 で、郡を治める『 かみ 』が 『 大領 』 。

貞宣は、1120年頃に讃岐守として赴任してきた藤原家成と自分の娘の婚姻を結び、
生まれた男子が後に藤大夫章隆(とうのたいふ あきたか)と名乗るようになります。
綾氏は日本武尊(やまとたけるのみこと)の息子・武殻王(たけかいこおう)の末孫と
すでに名乗っていたのに、更に箔付けを望むとはなかなか野心的ですね。
以降の綾氏は、藤原氏を総領とした讃州藤氏(さんしゅうとうし・讃岐の国の藤原氏)と
呼ばれるようになりました。

こうして生まれた讃州藤氏の血族・分家がそれぞれ任された土地を治め、
その地名にちなんで羽床・新居・香西・福家と独自の氏を名乗るようになります。
更にこの後、親族や家臣が大野、植松、柞田、三野、阿野、詫間、豊田といった氏を名乗り
讃岐藤家六十三家 』 といわれるようになりました。

『 見聞諸家紋 』(けんもんしょかもん、1470年頃に書かれた日本最古の家紋収録書)によると、
香西氏の家紋は下段の左から三番目『 岩笹に三階松 』です 。
見聞諸家紋
松は長寿の象徴で縁起が良いものとされていたこと、
春を 『 待つ 』 、神が宿るのを 『 待つ 』 、
行く末を 『 待つ 』 という日本人らしい精神を象徴したものであること、
そして讃岐に松の木が多く生えていたことから、
讃州藤氏に代表される讃岐の豪族は松を使った家紋が多く、
それから1000年が過ぎた現在も香川県では松紋のご家庭が多いのだそうです。
自分のおうちの家紋が分かる方は由来を調べてみると面白いかもしれませんね。

崇徳上皇と保元の乱(パリピっょぃ)

平安時代末期に起きた保元の乱。
一言でいうと 鳥羽法皇(父)のせいで起きた、崇徳上皇(兄) VS 後白河天皇(弟) の権力争いです。

ちなみにこの当時の天皇位は
 ・在位中であれば 『 天皇 』
 ・退位後は 『 上皇 』=院とも呼ばれる。院政の院はこれ。
 ・上皇が出家したら 『 法皇 』
このように称号が変わります。

※現在は法律が異なるので、今上陛下がもしも生前退位なされても上皇とは呼ばれません。
※(2017年6月13日追記)
2016年に今上陛下が生前退位についてのお気持ちを表明されたことを受け、
間もなく『 天皇の退位等に関する皇室典範特例法 』(通称:退位特例法) が制定され、
一代限りの退位を認め、退位後の天皇を『上皇』に、
退位した天皇の后を『上皇后』とする、といった内容の法律となる予定です。
今上陛下と皇后さまは今までご高齢をおして
日本と国民のために数多の皇室行事やご公務を務めてこられたのですから、
上皇、上皇后となられた暁には、ごゆっくり、
お好きなことをして過ごしていただきたいですね。

学生さんは日本史で習うはずですが、この辺りの時代は覚えろと言われる人も出来事も多く、
細かいところは忘れたという方も多いと思いますので改めて。
これがもっのっすっごい長い話になりますが、崇徳上皇と讃岐の関係上ここは外せない。
たまに讃岐関係ないところもありますが、私が日本史の中でも
かなり好きな崇徳上皇と後白河法皇のお話なのでつい。宜しければお付き合いください。
あと、ここから先、香川県民の方は崇徳上皇寄りの気持ちでご覧ください。

そして諱(いみな)と諡号(おくりな)があるため人名や関係が混乱するかと思うので、
宜しければこちらの家系図を印刷して、お手元で見ながらご覧いただくと少しは分かりやすいかと。
平安末期・皇室周辺の系図

事の起こりは1129年。白河法皇が77歳で亡くなります。
院政により幼い天皇の後見となることで
43年の長きに渡って政治の実権を握っていた朝廷のドンが居なくなり、
その後を継いで院政を敷き実権を手に入れた鳥羽法皇は、
当時の天皇であり、自分の息子である崇徳天皇に対し退位を迫ります。
鳥羽法皇は、自分の子かどうか怪しい、もしかしたら自分の父・白河法皇と
妻・藤原璋子(ふじわらのしょうし/たまこ)の不義密通の子かもしれない
(という噂があった。DNA鑑定も無い時代、悪い噂も信じれば真実です)
崇徳天皇よりも、寵愛していた藤原得子(ふじわらのなりこ)の子である
躰仁親王(なりひとしんのう)を天皇位に就けたかったのです。
自分の父の子なんじゃないか、という疑いから我が子を憎み悲劇が生まれる…
北大路欣也さんがドラマやってた『 華麗なる一族 』みたいですね。

そして鳥羽法皇からの圧力に屈した崇徳天皇は退位し、躰仁親王がわずか3歳で即位して
近衛天皇となりますが、小さな頃から病がちだった近衛天皇は17歳で早逝してしまいます。

この後に崇徳上皇の子が天皇位を継いでいれば、崇徳上皇が院政を敷いて
権力を握ることもできたのですが、近衛天皇の後を継いだのは
崇徳上皇の同母弟で8歳年下の雅仁親王後白河天皇)でした。
鳥羽上皇が守仁親王(後の二条天皇)を最終的に天皇にすることを望み、
守仁親王がある程度成長するまでの繋ぎとして雅仁親王を即位させたのです。
守仁親王は雅仁親王の長男ですが、生母である源懿子(みなもとのよしこ)が
親王を産んですぐに亡くなったため、鳥羽上皇に引き取られて
鳥羽上皇の寵姫である美福門院(藤原得子)に育てられました。

ちなみに雅仁親王は、兄の崇徳上皇も居るし、兄の息子も居るし、ということで
自分に皇位が回ってくるとは夢にも思わず、若い頃からめっちゃ遊んでいました。

雅仁親王(後白河天皇)のパーリーピーポーぶりの一例
icon-star-o 今様(平安時代の流行歌。今で言うJ-POPみたいなもの)にハマって喉から血が出るほど歌ったり、
朝から朝まで歌いすぎて喉を傷めて声が出なくなったり。


 今様と言えば “遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけむ” の一節が有名ですね。
 法皇になってからは 『 梁塵秘抄 』 という自分のお気に入りの今様を集めた
 various artistsなオムニバスアルバムをリリースするほどなので、本当に好きだったんですね。


 ちなみに今様の 『 7、5、7、5、7、5、7、5 』という7音と5音の4セットでワンフレーズ、
 7音と5音を繰り返す七五調の詞運びは今も名残を感じることができます。
    icon-music 色はにほへど 散りぬるを 我が世たれぞ 常ならむ
    有為の奥山 今日越えて 浅き夢見じ 酔ひもせず
    icon-music 我は海の子 白浪の さわぐいそべの 松原に 煙たなびく とまやこそ 我がなつかしき 住家なれ
    icon-music 蛍の光、窓の雪、書読む月日、重ねつゝ、何時しか年も、すぎの戸を、開けてぞ今朝は、別れ行く


  この辺りが今様と同じですね。


  現代の演歌やJ-POPでも近い詞運びの歌は色々あります。
    icon-music 何があっても もういいの くらくら燃える 火をくぐり あなたと越えたい 天城越え
    icon-music 明日があるさ 明日がある 若い僕には 夢がある
     いつかはきっと いつかはきっと わかってくれるだろう
    icon-music 愛だって 夢だって 泣き出しそうな 笑顔だって
     Oh Time Flies 愛しているよ Oh Time Flies そう何もかも


icon-star-o 母親が亡くなって住む所がなくなったので引き取ってくれた
 兄の崇徳上皇の家でも遠慮しつつも夜通し歌ったり。
 (今で言えばバンドマンの弟が夜中にギターを掻き鳴らして歌うようなもの?)


icon-star-o 身分に関係なく白拍子や傀儡子と仲良くなり、男とは友達に、女とはあれやこれやしたり。
 (いや当時は男色も嗜みのひとつだったので、男性ともあれやこれやだったのかも)


icon-star-o 友達を集めて藤原頼長宅である東三条殿で池に竜頭船を浮かべ、夜ごと船上で歌うこと40日。
 (今でいえばクルーザーにカラオケを積んで俺の歌を聴けライブってことでしょうか)


icon-star-o ゲームの勝ち負けや賭け事に熱くなる性格だったり。
 (バンドマンで女遊びが激しく趣味がパチンコと想像してみるとだいぶヤバい)

そんな皇族。ファンキーですね。
このファンキーな弟の即位により後の権力を得ることもできなくなった崇徳上皇の気持ちを思うと。
そして歌って踊ってさえいられれば幸せだったのに、
鳥羽上皇や周りの貴族の思惑によって、自分を家に住まわせてくれていた兄を裏切ることになった
後白河天皇の気持ちもたぶん微妙なものがあったと思われます。

ここから崇徳上皇 VS 後白河天皇の様相が生まれ、
またそれぞれの権力闘争から二人に味方した貴族・武士同士の対立が深まっていきます。
そして1156年、院政による実権を握っていた鳥羽法皇が亡くなると
崇徳上皇が保元の乱を起こしました。

鳥羽法皇の危篤の知らせに御所へ駆けつけた崇徳上皇は、
父の死に目にあうこともできなかったといいます。
「 あいつには死に顔を見られたくない。葬儀に参列することも許さない 」
と鳥羽法皇が言い遺していたからです。
父親からずっと疑われ軽んじられ、病床の見舞いも断られ、遺体との対面も許されず、
最期の最期まで自分を我が子として愛してくれなかったことが、
これまで蔑ろにされても耐えてきた崇徳上皇をついに思い切らせたのかもしれません。

保元の乱では
崇徳天皇の陣営に藤原頼長、源為義&為朝、平忠正が、
後白河天皇の陣営に藤原忠通、源義朝、平清盛がそれぞれの味方をします。
後白河天皇には藤原通憲(信西)という有能なブレーン(兼 愛人という噂も)もついていたことから
約半日という短期間で決戦し、後白河天皇側の勝利となります。
ここで後白河天皇側についていた源義朝、平清盛はそれぞれ大きな権力を持つようになり
貴族の衰退と武士が台頭する時代の始まりとなるのでした。
そして保元の乱で弟に敗れ、失脚した崇徳上皇は讃岐国への流刑に処されます。

崇徳上皇の祟り(人生経験がいい歌になる)

讃岐に流されて寂しい田舎生活を送るうちに、仏の教えに感銘を受けた崇徳上皇は、
乱を起こして世を騒がせた反省や、戦いの中で死んでしまった人々への償いとして、
そして自分を不義の子と疑い疎んじ続けた鳥羽上皇への恨みを忘れて菩提を弔いたいと、
三年の月日をかけて仏教の五部大乗経の経典写本を書きました。
(血で書いた説と墨で書いた説があります。
ものすごい文字数の写本が血で書かれてたらちょっと嫌だな…)

この写本を霊験あらたかな京都のどこかのお寺に奉納してほしい、
よければ八幡山か高野山に、もし許してもらえるなら父の鳥羽法皇の御陵に、と朝廷にお願いするのですが
後白河法皇は「 こんなモン呪われそうだから要らん 」 と写本を突き返してきました。
突き返したのは後白河法皇ではなく信西(参謀 兼 愛人)だという説も、
ただ返却されたのではなくビリビリに破られていたという説もあります。
崇徳上皇のきもち
この仕打ちに怒り狂った崇徳上皇は生きながらにして
角が生えたルシファー…ではなく夜叉(天狗)と化したとも、
悲しみに気落ちして病が悪化して亡くなってしまったとも、
二条天皇の命によって三木近安(みきちかやす)という武士が暗殺したとも、
様々な最期が時の歴史物語本には書かれています。

瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ
(急流が岩に堰き止められ2つに別れたとしても再び1つの流れに戻るように、
 私とあなたもきっといつか結ばれるでしょう)
と、障害に阻まれても想いを遂げる恋の強さを詠んでいたロマンチストな宮様が、

狩衣 そての涙に やとる夜は 月もたひねの 心ちこそすれ
(旅装の袖に染みた涙に夜が映り、月が一緒に寝てくれているような気がする)
と、旅路の中で心細くなって 『 月だけが友達… 』 と言い出した宮様が、

ここもまた あらぬ雲井となりにけり 空行く月の影にまかせて
(私の居るこの地が御所(雲のように遙か高みにある=雲井=宮中)になってしまった。
 空で動く月の影が遥か高くの雲に光を当てるように、この身もどうなるかわからないものだ)
と、自分の身の上にしんみりしつつ、都の暮らしを懐かしんでいた宮様が、

浜千鳥 跡は都へ通えども 身は松山に 音をのみぞなく
(浜千鳥の足跡は都へ行くことができるのに、浜千鳥の身はといえば讃岐松山で悲しみに鳴くだけです)
と、写本は京に送れるけど、自分は讃岐に居て声も届かない、
京に帰りたいけど我慢してるのでせめて写本を納めたいのです~という歌を送った宮様が、

夢の世に なれこし契り くちずして さめむ朝に あふこともがな
(夢のように儚いこの世界で、慣れ親しんだあなたと結んだ友情は朽ちることなく、
 今生の夢から覚めた彼岸でもあなたに会いたい)
と、死ぬ間際でも 「 あの世か来世でまた歌詠み友達の藤原俊成に会えたらいいな 」 という
ささやかな願いしか口にしなかった宮様が。

今生の恨みも怒りも苦しみも捨て、すべて後の世の平和のため、死んだ者の菩提を弔うためと
必死の思いで書き上げた経典写本を、都のいずこかの寺に置いておくことさえ許してくれない。
そんな道理の通らぬ世の中ならば、滅びればいい。
そんな心のない帝ならば、ただびとに堕ちればいい。

そう呪いの言葉を吐き最期には舌を噛み切った血で呪いの文言を写本の巻物に書き付け、
死して怨霊に、そして祟り神になったというのですから、なんと恐ろしいビフォーアフター。
その血で巻物に書かれたとされる呪言がこちら。

願わくは、大魔王となりて天下を悩乱せん。
五部大乗経をもって廻向す。
日本国の大魔縁となり、皇を取って民となし、民を皇となさん。
人の福をみては禍とし、世の治まるをみては乱をおこさしむ。


 ---私は大魔王となって天下を乱そう。
    この写経に込めた善なる思い、積み重ねた功徳をすべて悪意に変えて呪おう。
    日本に仇なす魔導に堕ちた天狗となって、
    皇族を平民に落とし、平民を天皇にしてやる。
    幸福を禍(わざわい)に、平和を戦乱に変えてやる。

崇徳院の百人一首浮世絵
こちらは江戸時代に歌川国芳によって描かれた浮世絵 『 百人一首之内 崇徳院』です。
添え書きには 『 瀬を早み 』 の歌とともに 『 実に意味ふかき御歌なり 』 と書かれています。
瀬を早み、と詠っていた頃はまだ闇落ちしてないはずなのに
なんかめっちゃ怖い感じに描かれている崇徳上皇。ちょっと悲しい。
あと瀬戸内海がそんな荒波になってるの見たこと無いんですけど怨霊パワーでしょうか。

さてそんな崇徳上皇は、日本三大悪妖怪に数えられています。
日本三大悪妖怪のメンバーはこちら。
・酒呑童子(京の都で暴れた人食い鬼。源頼光に討伐された)
・玉藻前(九尾の狐。美女に化けて時の権力者を誘惑、世を乱す。漫画・うしおととらで言えば白面の者)
・崇徳上皇(政権闘争に破れ流刑になった恨みから怨霊になったと言われる。祟り神あつかい)

ちなみに日本三大怨霊にも名を連ねています。
・菅原道真(謀反の疑いという冤罪により九州の大宰府に左遷。全国の天満宮に祀られる)
・平将門(武士を率いて朝廷に対抗、討伐される。将門の首を祀った将門塚が有名)
・崇徳上皇(同上。御陵は香川県坂出市の白峯陵。京都の白峯神宮にも祀られている)

後の世の人たちが災害や戦乱を誰かのせいにできる理由を欲しがった結果とも言えますが。
後白河法皇の身内は相次いで病死、武士の台頭による政変、
京の都で大火や風雨が多発、戦乱による治安の悪化、疫病の大流行。
これらの崇徳上皇が亡くなってからの変事は全て上皇の祟りのせいとされ
それから歴代の皇族・貴族・武士たちは崇徳上皇を丁重に祀り、鎮魂を祈るようになったのです。

崇徳上皇の讃岐暮らしと鎮魂(鳴くのなら追い出しちゃうぞホトトギス)

1156年、保元の乱で敗れた崇徳上皇はすぐに流刑が決まりました。
讃岐に流され、松山の津(現・坂出市高屋町の海岸)から上陸し
その地を治めていた豪族・綾高遠(あやのたかとお)の
邸宅(現・坂出市林田町)の一部(狭い)を仮の御所として隠遁生活を送っていました。
これはその地でも力を持つ豪族であった綾氏に対して、
上皇の世話と監視を兼ねた命が朝廷から下されていたものと思われます。
この仮の御所は 『 あらぬ雲井となりにけり 』 の歌にちなんで雲井御所と呼ばれました。

後世では長宗我部元親の讃岐攻めの兵火に巻き込まれ雲井御所の場所が分からなくなっていましたが、
1835年、高松藩9代目藩主・松平頼恕が命じてその場所を探させ、
発見した御所跡地に雲井御所之碑が建立されたそうです。
また、頼恕は綾高遠の子孫である綾繁次郎高近を探し出し、
雲井御所之碑の付近に田地を与えて碑を代々見守っていくよう命じます。
700年が経って高松市円座町に住んでいたのが、いきなり藩主様から坂出市林田町に移れと言われた
高遠さんの子孫の高近さん(名前が対になっているようなのも不思議なものです)はビックリしたでしょうね。
ちなみに現在も石碑近くに綾さんのお宅があります。

さて、崇徳上皇は雲井御所で暮らす間、京の都が恋しいよ~と和歌を詠んでみたり、
近隣の武士を集めて弓術大会を催したり、うずらを庭で放し飼いして愛でてみたり、
綾高遠の娘である綾の局といい感じになって子供が生まれたりして3年ほど経ち、
(あれ?意外と田舎暮らしを満喫なさっている?リア充?祟りそうになくない?)
その後は直島の御所に、そして更に後に移った鼓の岡の御所・木の丸殿(このまるでん)で
6年ほど暮らした後に亡くなります。
終の行在所となった木の丸殿は、崇徳上皇の死後に祠が建てられ、
現在の鼓岡神社(香川県坂出市府中町)となっています。
例の経典を3年かけて写した場所も木の丸殿。

しかしこの木の丸殿も、皇族の暮らす御所としては有り得ないくらい狭く質素なものだったようで、
そのこともあって余計に崇徳上皇は都で華やかに暮らしていた頃が恋しくなったのかもしれませんね。
香川県坂出市府中町には鴨川という地名が残り、現在では鴨川駅というJRの駅もあるのですが、
これは府中に流れる綾川を、京を懐かしむ崇徳上皇が
鴨川と呼んでいたのが地名として残ったと言われています。
その他にも、近くの山を東山、西山と京にある山にちなんで名付けたこともあったようですし、
更にはこのような歌も遺っています。

なけば聞く 聞けば都の恋しさに この里過ぎよ 山ほととぎす
(お前が鳴いたらその美しい鳴き声を聞かずにはいられないし、その鳴き声に京の都を思い出してしまう。
 どうかこの里から去っていってくれないか、ほととぎすよ)
崇徳上皇がこの歌を詠んで以降、ホトトギスは鳴くのをやめ、
鼓岡の周辺は 『 なかずの里 』 と呼ばれるようになったという伝承があります。
空気の読める鳥だな…🐥
いやむしろ周りの村人が空気を読んでホトトギスを…?

しかしこれだけ京のことを言われると、京からずっと上皇に付き従ってきた家臣のひとや
讃岐に来てからお世話をしている周りのひとはちょっと困ったのではないでしょうか。
地元の京が恋しい気持ちはすげえ分かるんすけど、田舎は田舎でいいとこっすよ?
とか慰めるくらいしか出来ないし。

そして崇徳上皇は讃岐で暮らすこと9年目、1164年に46歳で崩御されました。
家人や村人が葬儀の手順などを京にお伺いをたてている間、
夏の暑さによるご遺体の傷みを防ぐために白峯山の弥蘇場(八十蘇・八蘇場・八十八とも)の
冷たい湧き水に沈めたところ、20日以上腐敗しなかったという言い伝えがあります。
ちなみにこの弥蘇場の前にお店を構えている、ところてん屋さんがおすすめです。
冷たい清水が美味しいところてんの秘訣。

その後、白峯山の稚児ヶ嶽(坂出市青海町)の頂上で荼毘に付され、
その立ち上る煙は上皇の心を現したように京の方角へ遠くたなびいていました。

遺灰は白峯寺に隣接する白峯御陵(しらみねのみささぎ)に葬られました。
京の都から遠く離れた地にある唯一の御陵だったこともあり、
江戸時代にはすでに手入れもされず荒れた状態だったそうです。
それを江戸時代に高松藩初代藩主・松平頼重、5代藩主・頼恭、11代藩主・頼聡が
それぞれの治世で修復を行い、現在の立派な方丘(台形型)の御陵の姿が残されました。

また、住まわれていた御所・木の丸殿は阿闍梨章実によって
白峯寺の境内に移設され、鼓岡神社となりました。
白峯寺(四国霊場八十八ヶ所・第79番札所)はこの後、天皇ゆかりの寺として
近隣の民から 『 天皇寺 』 と呼ばれて親しまれ、よりいっそう敬われるようになります。

また、崇徳上皇が崩御された3年後の1167年、後白河天皇に味方し勢力を増した平清盛
武士として初めて太政大臣に任命されました。
この後の鎌倉・室町・戦国・江戸の時代までずっと、皇族・貴族ではなく武士が政権を握り、
更にその後の時代は平民も関係なく参政権を得て、平民から政治家が生まれる時代になっていきます。
時勢といってしまえばそれまでですが、
崇徳上皇の 『 皇を取って民となし、民を皇となさん 』 という呪いが成就したのだ、と
後の世の人々は考え、ますます崇徳上皇を畏怖しその御魂を鎮めることを重要視するようになりました。

そして後白河天皇・二条天皇・六条天皇に続く80代天皇である高倉天皇によって
それまで 『 讃岐院 』 と呼ばれていた上皇に
『 崇徳天皇 』 の追謚(ついし・死後におくり名をおくること)がなされました。
そう、ここまでさんざん崇徳上皇とお呼びしてきましたが、
実際には死後何年も経ってその名がおくられるまでは『 新院 』や『 讃岐院 』 と呼ばれていたのです。

「 讃岐院の祟りパワーやばい…こうなったらとっておきの 『 徳 』 の字を差し上げて、
  祟り神となったあなたを、崇めるべき徳の高い御魂としてお祀りいたします。許してください 」
ということですね。

祟(たた)る=出+示=国津神(地の神)からはみ出し、あるいは国津神を追い出し、不幸を招くこと。
崇(あが)める=山+宗=高い山のように霊格・神格の高い存在や身分の高い者を尊ぶこと。
ぱっと見は似ていますが異なる漢字で、意味は正反対と言ってもいいくらい違いますね。
こうして数多ある漢字の中でも、とても尊く良い意味を持つ 『 崇 』と『 徳 』 がおくられ、
讃岐院と呼ばれた宮様は、崇徳上皇となったのです。

その後、崇徳上皇の時代から700年以上が経った幕末の動乱の最中、
時の孝明天皇は日本の在り方が変わってしまうほどの未曾有の危機に加護を祈ろうと、
最期まで京の都に帰りたがっていた崇徳上皇の御霊を
京にお招きする計画を立てていましたが、お志の半ばで崩御なさいました。
そのご遺志を継がれた明治天皇は1868年、ご自身の即位の礼に際して
香川の白峯から崇徳上皇の御霊をお招きするために白峯神宮(京都市上京区)を創建なさいます。
この神宮は和歌と蹴鞠に才があったことで有名な飛鳥井家の屋敷跡に建てられたため、
飛鳥井家が祀っていた蹴鞠の神 『 精大明神 』 も崇徳上皇と一緒に祀られています。
このため白峯神宮をサッカーを代表とした球技の神様が祀られていると思っている方も
多いようなのですが、お参りに行かれた際には崇徳上皇へのお参りもお忘れなく。

また、昭和天皇も崇徳天皇八百年祭に当たる1964年に
香川県坂出市の崇徳天皇陵に勅使を遣わされて白峯御陵の御前で式年祭の祭祀を行われています。

ちなみに、現代でも崇徳上皇の影響かもしれない事柄があります。
崇徳上皇の諱は顕仁(あきひと)、弟の後白河法皇の諱は雅仁(まさひと)。
今上天皇の諱は明仁(あきひと)、弟の常陸宮殿下の諱は正仁(まさひと)。
大切な皇族方の諱を適当に決めるはずもないでしょうから
何かしらの意味があってこうなさったのだとは思うのですが。
今でも皇族の方々は崇徳上皇の御魂を敬い慰めることを怠っていないということなのかもしれません。

その強大な力と荒ぶる心に任せて世を乱す荒御魂(あらみたま)は
鎭まれば和御魂(にぎみたま)、つまりは加護をもたらす穏やかな神になります。
鎮まった崇徳上皇の御魂によって四国守護がなされている、という説もあるので、
香川県の、特に坂出市にお住まいの方で、崇徳上皇ゆかりの
神社やお寺に行かれたことが無い方は、ぜひ一度お参りに行かれてみてはいかがでしょう。

平家衰退のはじまり(強訴こわい)

先の保元の乱、そしてその後の平治の乱において武功をあげた平清盛
清盛は、後白河上皇(父)と二条天皇(子)の両方と上手く関係を結び、
また自身も関白との姻戚関係などを用いて勢力を増大させていきます。

しかし後白河上皇の寵愛を受けていた建春門院(平滋子。清盛の妻である時子の異母妹)が亡くなったことで
後白河上皇の派閥と平氏の仲立ちをして上手く折衝を図ってくれる人物が居なくなり、
官位の奪い合い、荘園領土の奪い合いなど、もともと対立の火種が
そこらじゅうに存在した二者は仲良くしようがない状態になっていきます。
しかし後白河上皇にすれば、自分の権力の一因に平氏の武力があるため縁を切ることもできず、
清盛からすれば上皇との協力体制によって昇進してきたので潰すこともできず。
お互いちょっと微妙な気持ちながらも表面上は普通にお付き合いしていました。

しかしそんな微妙な状態のところへ事件が起こります。
後白河上皇の側近である西光(藤原師光)には息子・藤原師高がいたのですが、
その藤原師高が加賀(石川県)の国司となり、弟の師経が目代(代官)として現地赴任していました。
その赴任先で師経は白山領の涌泉寺の僧と揉めた上、その寺を焼き討ちしてしまいました。
しかもよりによってその寺は比叡山延暦寺に連なる寺だったのです。
後にあの織田信長も手を焼いた延暦寺。僧兵。多い。強い。こわい。

その僧兵がわらわらと集まってきて
「 うちの傘下のモンに因縁つけた上に焼き討ちしよった藤原師経は
  きっちりケジメつけてもらわにゃ、こっちも収まりつかんのですわ 」
と詰め寄ります。こわい。
この僧兵との揉め事が 白山事件 と呼ばれます。

そこでひとまず揉め事の当人である師経を備後国(広島県)に流罪にしたのですが、
その判決に納得しなかった延暦寺側は、ついに後白河上皇に強訴しようとします。
強訴…つまり朝廷に僧兵が大勢で押し寄せ、
日吉大社(後に織田信長の焼き討ちで燃える)の神輿を担いで(神威=神の威光を借りて)
「 関係者出せや!全員処刑か流刑じゃコラ! 」 と叫ぶのです。こわい。

icon-tint強訴こわい、という話icon-tint
当時の僧・僧兵・神職は、朝廷や幕府に対して不服があると、要求を飲ませるために強訴を起こしました。
特に南都興福寺と比叡山延暦寺の2山は、その強訴の頻度と勢力の強大さから
『 南都北嶺 』 と並び称されるほど有名でした。


  南都興福寺…奈良県奈良市にある法相宗(ほっそうしゅう)の大本山のひとつ。
        唐の玄奘法師の教えから生まれた宗派が遣唐使によって日本に伝わった。
        この記事の一番最初に出てきた、讃岐に綺麗な塩の作り方を教えてくれた行基さんも法相宗。
        ちなみにこの興福寺の子院の一つである宝蔵院の院主が宝蔵院流槍術の開祖・胤栄。
        国宝と重要文化財をいくつも備えた世界遺産。
        藤原鎌足(中臣鎌足)の奥さんの鏡大王が、鎌足の病気平癒を願って建立した
        山階寺(京都市山科区)が、藤原京に移設されて厩坂寺となり、
        更に後の710年の平城遷都の際に鎌足の子である不比等によって移設されたものが
        興福寺となった。この頃に建てられた中金堂(ちゅうこんどう)が現在再建のため
        勧進を募集しているので、興福寺に寄られた方は是非。
        興福寺は元々藤原氏の保護を受けて栄え、更に大和武士と僧兵を擁して大きな勢力となり、
        鎌倉幕府・室町幕府のいずれも大和国に守護の役職を置く事ができず、
        信長と秀吉に支配されるまでは大和国を実質的に支配していたのは興福寺だった。
        強訴の際に、延暦寺が日吉大社の神輿を担いだのに対し、興福寺は春日大社の神木を担いだ。


  比叡山延暦寺…滋賀県大津市にある天台宗の総本山。
        延暦寺の住職は天台座主と呼ばれ、全ての天台宗の末寺を統括する。
        日本に帰化した鑑真和上によって律宗・天台宗が伝えられた後、
        唐で学んだ最澄によって興された天台法華宗が始まり。
        こちらも国宝と重要文化財をいくつも備えた世界遺産。
        比叡山の麓にある日吉大社は、約2100年以上の歴史をもつ由緒正しい神社であり、
        全国にある日吉・日枝・山王(山王権現)神社の総本社。
        山の上に延暦寺が開かれてから後は、天台宗と延暦寺の護法神として更に崇められた。
        しかしその日吉大社の神輿を使ってガンガン強訴する辺りが僧兵こわい。
        日吉大社の神様のお使いである神猿(まさる)は名前も見た目も可愛いのに。


さて強訴についてですが、文句があるからといきなりキレて突撃している訳ではありません。
まずその問題について話し合い、匿名投票の多数決で強訴するかどうかを採決していました。
まず僧兵たちは皆、裹頭(かとう)という目だけ出した覆面をつけ、
誰の意見か分からないように声色を作って、問題の提起と解決について主張します。
(目が出てて体格わかったら大体知り合いの誰かはわかるだろ、というツッコミは無しですよ)


こちらの浮世絵は明治時代に月岡耕漁が武蔵坊弁慶を描いた 『 橋弁慶 』 。
元は比叡山の僧兵だったという伝承がある弁慶が裹頭を被って描かれていますね。
橋弁慶
こんな感じの微妙な匿名状態で「 強訴すべし! 」 という主張に対して
賛成であれば 「 尤も尤も(しかり、その通り) 」 と、
反対であれば 「 謂われなし(納得いかんな) 」 と、
それぞれが声を上げ、いざ賛成多数可決で強訴が決まれば神輿を担ぎ(御輿振り)、
あるいは神木を担いで(榊振り)突撃したのでした。


突撃した結果、それでも要求が認められなければ、最終手段として
神輿や神木を朝廷や城の門前に放置して政治機能を麻痺させます。
現代っ子なら、普通に動かして横に避けさせてもらえば入れるんじゃね?と思うところですが、
当時の神仏の権威というのはとても大きく、不用意に触れたり、うっかり壊したりしたら
大変なことになると思われていたので、触らぬ神に祟り無し、だったのです。
今でも神仏に関するものを粗末に扱うことは有り得ないとは思いますが、
当時の人々の中ではその気持ちがより大きかったんでしょうね。


史上初の院政により43年の長きに渡って朝廷の実権を握った白河法皇でさえも、
「 賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ我が御心に叶はぬ物 」と嘆いたと平家物語に書かれています。
鴨川の氾濫、サイコロの目、僧兵の強訴。これこそが思い通りにならないものだ、と
自然の脅威や運と同じくらいに強訴はどうにもならん、と仰ったんですね。
逆に言えばそれ以外はどうとでもなったということなので、白河法皇の当時の権力の大きさが伺えます。

さてその強訴の最中、宮廷の警備をしていた平重盛の兵と比叡山の僧兵の間で武力衝突が起こり
矢が神輿に当たった上に死者も出てしまいます。
キレた僧兵たちは
「 もうええわ、神輿置いて帰ったるわ!
  お前らなんかに神仏の加護がもらえると思うなよ! 」 と
神輿を投げ捨てて帰ってしまいました。

朝廷側は祇園社(現・八坂神社)にとりあえずその神輿を預けて、どうしたもんかと話し合います。
そこでひとまずの落とし所として師高を尾張国井戸田(名古屋市瑞穂区)に流刑、
うっかり死者を出してしまった重盛の部下は禁獄になって一件落着。
(ちゃんと警護の仕事してただけなのに投獄された部下むごい)

かと思いきや、全然一件落着してなかった。
息子達を流刑にされてしまった西光のための仕返しなのか、
後白河上皇は天台座主(比叡山延暦寺の貫主であり全国の天台宗の総元締め)である
明雲を逮捕して座主職を解任、伊豆へ流刑に処します。
「 そもそも田舎の揉め事を都にまで持ち込んで強訴までして世の中騒がせたのはアタマのお前のせい 」
ということらしいです。
しかし今度も僧兵が大人しくしているはずもなく、護送されていく明雲の一行を
2,000人もの僧兵が囲み、明雲の身柄を奪取して比叡山に逃げ込み隠れます。
ここに至って後白河上皇もキレました。

後白河上皇 「 朝廷ナメてんじゃねえぞシャバ僧が!平家一門に命ず、延暦寺を潰せ!! 」
平重盛&宗盛 「 えっマジっすか。仏門を敵に回すのはヤバイっしょ。
        僧兵多いし怖いし。神仏のバチ当たってもヤですし。
        どうしよ、つかとりあえず親父の清盛に相談してからでいいっすか 」

重盛&宗盛から後白河上皇の命令について聞いた清盛は慌てて京に向かい、
後白河上皇を宥めようとしますがその意志は変わらず、結局延暦寺攻撃の準備を進めることになりました。
しかし清盛と後白河上皇が話し合ったほんの4日ほど後に事件は急展開を迎えます。

さあ比叡山攻めるぞー!と準備が進んでいた1177年の6月1日、
多田行綱(ただゆきつな。源氏の一族なので源行綱とも)が清盛に会いに来てそっと告げ口をします。

行綱「 上皇、平氏倒すってよ 」
清盛「 ハァ!?今も上皇に言われて僧兵倒しに行こうとしてんのに何で俺らが倒されんだよ 」
行綱「 お前ら調子乗りすぎ。一門にあらざらん者はみな人非人なるべし、とか言うからじゃん 」
清盛「 いやそれ言ったの俺じゃねえし。言ったの嫁の弟の時忠だし 」
行綱「 なんにしてもさー、皆が平家ムカつくっつって、こないだ上皇、藤原成親、西光、俊寛とかが
    鹿ヶ谷の山荘に集まって話し合ってさ。
    俺を旗印に担ぎ上げて、平家一門を滅ぼそうぜーってなったの 」
清盛「 ちょ、待てよ。お前がトップだったらなんで今俺にバラしてんだよ 」
行綱「 だってあいつら無能すぎるし、お前ら超強いもん。ぜってー失敗する計画の頭とかイヤじゃん… 」
清盛「 お、おう。教えてくれてありがとな。対応どーすっかなー 」

この鹿ヶ谷の陰謀(ししがたにのいんぼう)と呼ばれる計画を知った清盛は、
すぐさま西光を捕らえ、拷問にかけて(おおう…えげつない)自白させ、
計画に加担していた人物を片っ端から処断していきます。
ちなみに現在では、この鹿ヶ谷の陰謀から上皇一派の粛清までがワンセットで
清盛の謀略だったとする説もあります。
後白河上皇には何も直接的なお咎めはありませんでしたが、平氏一門と朝廷の仲は完全にこじれ、
後の上皇の幽閉や、平氏と源氏の争いの火種となったのでした。

治承・寿永の乱(←源平合戦のこと)

知行国の支配と日宋貿易で莫大な財を築き、姻戚関係によって公卿や殿上人も
平家の者が多く占めることで大きな権力・武力を手に入れ、栄華を誇っていた平氏。
それに対する不満を持つ平氏以外の人々によって
治承・寿永の乱(一般的な呼称が源平合戦)が起きます。
これは1180年の始まりから6年にもおよぶ大規模な内乱でした。

後白河法皇の第三皇子・以仁王(もちひとおう)が 『 以仁王の令旨 』 にて
『 後白河法皇の幽閉を代表とする平清盛らの暴挙は
  朝廷に対する反逆、反逆者である平家を追討せよ 』 と発して挙兵し、
それに呼応した武士が平氏との戦いを始めます。
これに参戦したのが北条氏の助力を得て関東武士をまとめた源頼朝でした。
後に木曾義仲や平氏を倒した頼朝が、弟・義経を裏切って追放し、奥州藤原氏も滅ぼして、
全国に地頭(政務担当)と守護(警備担当)を置いて支配力を強めた政権を樹立。
この政権が鎌倉幕府と呼ばれるようになります。

さて、そんな頼朝が政権を握る前、源平合戦の最中のことです。
1181年に清盛が亡くなったことで源氏の勢いが増し、
1183年、木曾義仲が平氏の軍勢を打ち破り、平氏は安徳天皇と三種の神器を奉じて都を落ち逃れ、
最終的に讃岐国の屋島に本拠を置くことになります。
かと思えば1184年、木曾義仲が源頼朝と争い、宇治川の戦いで義仲は滅びます。
その仲間割れの隙に平氏は勢力を盛り返そうとしますが、
頼朝の弟である範頼&義経に攻め込まれて大敗することになります。
これが一ノ谷の戦いと呼ばれる合戦です。

いよいよ追い詰められた平氏は再び屋島に戻り、
水軍によって瀬戸内海の制海権を握ることで源氏からの攻撃をしのいでいました。
後白河法皇は
「 三種の神器を返してくれたら源氏に許してあげてって口利いてあげるよ 」
と囁きますが、
渡したところで遠慮なく滅ぼされるだけだと考えた平氏はその提案を呑むわけにもいきません。
その申し出を断ったことで、後白河法皇は 尊成親王(後鳥羽天皇)を神器の無いまま即位させました。
これは皇家の歴史の中でも異例のことであり、神器を返さなかった平氏と
朝廷&源氏との和平の道は完全に断たれました。

多田行綱のその後

鹿ヶ谷の陰謀を「 上皇、平氏倒すってよ 」と平清盛に告げ口していた多田行綱(源行綱)は
摂津源氏の中でも多田荘という重要な領地を任された多田源氏の一族なのですが、
源平の争いが激化する頃にはすでに平氏を裏切っていました。
平清盛→木曾義仲→後白河法皇→源頼朝と、上手く時勢を掴んで主流に味方していきますが、
VS平家の戦いの折に義経と共闘することが多く、義経寄りの勢力と見られたために
義経を滅ぼそうとした頼朝についでとばかりに切り捨てられてしまいます。
その処分を撤回してもらうために、今度は義経の逃亡を妨害するのですが、
結局はそれでも由緒正しい領地であるを多田荘を返してもらえることはなく、
その後の多田氏の存亡は今に伝わっていません。
清盛に後白河法皇側の陰謀を告げ口して以来、自分と一族のために
時勢に乗っかってきたというのに、運命とはどうなるか分からないものですね。

屋島の戦い(平家物語を読もう)

屋島を拠点として瀬戸内海の水軍を駆使して源氏の軍をどうにか跳ね返していた平氏。
しかし源義経が率いる軍船団が暴風雨の中を進軍し、
大坂の摂津源氏の助力を得て摂津の港を出、わずか4時間ほどで徳島の小松島に着岸。
それから陸地を移動して屋島へ奇襲を仕掛けます。
海から来る敵軍を警戒していた平家にとってはまさに寝耳に水、
屋島から逃れて檀ノ浦へ後退しながら義経軍に応戦します。
これが1185年の屋島の戦いです。

結局は平家はこの戦いに敗退し、屋島を捨てて山口県下関市の彦島へ落ち延びることとなります。
この時に逃れた先、彦島が、かの有名な壇ノ浦の戦いにおいて平氏の本陣となります。
香川の檀ノ浦と、山口の壇ノ浦、木偏と土偏で漢字は違いますが、
たまたま同じ読み方の地名のいずれにも平氏と深い縁があったんですね。

平家物語と弓の名手・那須与一

この屋島の戦いの伝承の中で有名な出来事が 『 那須与一の“扇の的” 』や 『 弓流し 』 です。
ちなみにゲームの武器アイテムとしてよく出てくる 『 与一の弓 』 はこの那須与一が由来です。

さてここからは平家物語の適当な現代語訳を交えてお送りします。
適当なので、あんまり学校の宿題とかの参考にはならないかと思いますが。

平家物語といえば、出だしのこれが有名ですね。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
驕れる者も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
猛き者も遂には滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ。

高校の古文の授業で、こっから5ページくらい(読み方だけ習って内容は習ってない)を
3日で暗記して、放課後に一人ずつ先生のとこに発表しに来いと言われ、
一語でも間違えたら次の日にまた先生のとこ行って発表、
合格するまで毎日繰り返し、あげく不合格のまま何日か経ったら先生から
「 お前らやる気あんのか!俺が時間潰して付き合ってやってんのに! 」
と怒鳴られる、という地獄を味わってから、好きだった古文を嫌いになった思い出…(。・ × ・)
まあ学校で嫌いになった後で漫画の 『 あさきゆめみし 』 と
『 徒然草 (NHKまんがで読む古典) 』 を読んでまた古文を好きになったのですが。

それはさておき、この冒頭部分が 『 巻第一 』 、つまり 『 プロローグ・第1巻 』 です。
そしてこれからご紹介する 『 那須与一 』や『 弓流し 』 が書かれているのが 『 巻十一(第11巻) 』です。
この11巻には与一さんのエピソードの他にも、壇ノ浦の合戦、平家の滅亡、天叢雲剣(草薙剣)などなど
いよいよ盛り上がってきた辺りが収録されていてめちゃくちゃ面白いので
(まあ面白くないと作品が800年近くも残りませんしね)
学生さんは(学生さんでなくても)頑張って訳して読んでみてください。

那須与一(扇の的)

そろそろ日が沈んで本日の戦業務も終了かな、という時間に、
平氏側から18歳くらいのキレーな女性が乗った小舟がやってきます。
その船には扇を挟んだ竿が立てられていました。

これは「 お前らも武士ならこの扇を射落とすくらい出来るよね?
出来ないとかダサいこと言わないよね?m9(^Д^) 」 と言われているも同然。

源氏 「 武士のプライド的に平氏の挑戦を受けないわけにはいかない。
    けど大将を一人で出したら狙い撃ちされるかも。
    大将以外の武士で確実に扇を射抜ける弓の上手いヤツを出さないと…( ゚д゚ ) 」

そこで選ばれたのが 『 坂東武士の鑑 』 と称されるほど知にも勇にも優れていた畠山重忠。
しかし重忠はこれを辞退(なんでだよ)。
代わりに重忠に指名されたのが那須十郎。しかし十郎も 『 ちょっと戦傷が…イテテ 』 と辞退。
そして十郎が弟を推薦して、19か20歳そこらの那須与一が義経の前に押し出されます。
押し付け合いか。上司と兄よ…。兄も11人兄弟の末っ子をもっと大切にしてあげてほしい。
(ちなみに与一という名前は『 10余り1 』で11男という意味です)
しかし与一も一度は辞退しようとします。

義経 「 さあ与一、扇のど真ん中を射抜いて平家の奴らに目に物を見せてやれ 」

与一 「 いや、失敗する可能性が高いし、もし失敗したら源氏の名折れでしょ。
    もっと弓の腕のたつ確実に成功できるひとに任せたほうがいいと思うんですけど 」

義経 「 はあ?お前も鎌倉から俺に従ってここまで来たんだろうがよ。命令違反かよ。
    今更俺に逆らうんならとっとと関東へ帰れよ 」

与一 「 (やべえ義経さんめっちゃキレてる…これ以上逆らったらヤバイ)
    わかりました…外れるかもしれませんけど、やるだけやってみます 」

味方の源氏兵 「 やってくれるさ、あいつなら…! 」

義経 「 うんうん、やっちまいな!! 」

こうして与一は弓矢で扇を狙うことに。
嫌な上司ですね。お前がやれよ。パワハラか義経。
と思って以来ちょっと義経のことをキライだったのですが、
その後 『 天よりも星よりも 』 という漫画を読んで、義経の生まれ変わりキャラが
割とイケメンで良い奴だったので私の中の義経株はアップしました。
歴史上の人物の好感度が全て小説と漫画とゲームの印象に左右されている私のチョロさ。

さて、そんなこんなでいざ矢を射ることになった与一。

弓矢を射るには少し遠かったので、馬で一段(=六間=約11メートル)くらい海へ入りますが、
それでも扇まではまだ七段(約77メートル)はあるだろうと見えました。
(この時、与一が海の中で馬の足場にしたとされる岩 『 駒立岩 』 が今も残っています)
2月18日の午後6時ごろ、北風も激しく、打ち寄せる波も高い。
船は大きく揺れ、扇も支えにちゃんと止まらずヒラヒラしています。
沖には平家の船が並び、陸には源氏の軍が馬のくつわを並べてこの様子を見ていました。
与一は皆の注目を浴びて武士として晴れがましい気持ちにならずにはいられません。
(平家物語の作者はそう書いてるけど…実際の与一の気持ちがどうだったかは…)

与一は目を閉じ、
「 武術の神様、俺の地元の栃木県の神様たち、どうかあの扇のど真ん中を射抜かせてください。
  俺はもしこれを射ることができなければ、弓を叩き折って自害します、
  人様に顔向けできなくなります。
  もしも俺の信じる地元の神様仏様が、栃木に無事に帰って来いと思ってくださるのなら、
  この矢を外さないでください、お願いだから!!! 」
と心中で祈ってから目を見開くと、風が少し弱くなり、扇も射やすそうになっていました。
(なんか与一の祈りがブラック企業の営業職みたいで悲しくなってきますね。祈りが通じて良かったです)
与一は鏑矢(かぶらや。実戦用ではなく、開戦の合図などに使われる矢。いい風切り音が鳴る)を取って
弓につがえ、十分に引きしぼって、ぴゅうと矢を放ちます。

与一は背の小さい侍でしたが、矢は十二束三伏(こぶし十二個と指三本分の長さ。普通より長い)、
弓は強く、鏑矢が空気を裂く音は入り江一帯に響くほどで、外れることなく
扇の要(軸の部分)のきわから一寸(約3センチ)ばかりの場所を、ヒュウ・プスッと射抜きました。
鏑矢は海中に沈み、扇は空へ舞い上がったのでした。
しばらく空にひらひらして、春風に一もみ二もみ揉まれて、海へさあっと散りました。

夕日の輝きの中で、総紅色の扇に日の丸が描かれたのが白波の上に漂い、
浮き沈みしながら揺られたので、沖では平家が船ばたを叩いて感嘆しました。
陸では源氏が、箙(えびら)をたたいて喝采しました。
那須与一in屋島
箙(えびら)とは
武士が背負って腰の辺りにさげている矢を入れる武具のこと。矢筒とも呼ばれます。
右利きだと矢を右手で取って弓につがうので、だいたい箙も右腰のあたりにあります。
今で言えば美容師さんのシザーケースとか大工さんの道具入れみたいなもの。

箙には獣の皮で作られた物もあったようですが、
平家物語絵巻などを見ると四角く硬そうな感じがするので
竹や籐で作ったものが当時のスタンダードだったのかもしれません。
だから弓や刀の鞘で打つと良い音がしたのかも。

拍手(はくしゅ)の文化
拍手の文化が外国から入ってきたのは、明治維新、文明開化が起こった後。
それまで日本では、手を打ち鳴らすのは神様に対しての 『 拍手(かしわで) 』 の時だけでした。
それが外国の人の慣習としての拍手を知って、おお、これが洋風のマナーってものか、
洒落てるなあ、と受け入れ、それが日本でも当たり前になっていったのです。
なんかスゴイものを見たとき、闘志を鼓舞するとき、良い芸を観たとき、誰かを褒めたいとき。
そんな時、昔の日本人は「 おぉぉ… 」 と唸ってどよめいたり、
「 うおおおお! 」 と叫んでみたり、 「 ●●ー! 」 と名前を呼んで讃えたり、
手にした武器や武具を打ち鳴らしたり、といった表現が普通でした。
そのためこの扇の的のお話の中でも、皆は手を打ち鳴らすのではなく、船のへりや箙を叩いていますね。

ほんの100年ほど前までは拍手が無いのが普通だったと思うと何だか不思議な感じがします。
いやでも今でもロック系やビジュアル系のアーティストさんのライブだと
拍手よりも拳を振り上げてウオオォって叫んでることが多いですし、
野球などの応援ではメガホンを打ち鳴らしてるし、
ヤンキー(都会の方々には想像もつかないでしょうが、今も田舎には普通に居ます)が
ケンカする時も角材とか鉄パイプとかでガードレールや地面をやたらに叩いているので、
古から受け継がれた何かが私達の中に残っている…のか?

弓流し

そしてこれにテンションが上がって我慢できなくなった、
黒革おどしの鎧を着て白柄の薙刀を持った50歳ほどの平氏の武者が
扇のあった辺りに立って舞を踊りました。
(なんで昔のひとって感極まると舞うんでしょうね。インドみたいでちょっと楽しそう)
すると伊勢三郎義盛が与一の後ろにやってきて、「 義経公のご命令だ。射て 」 と言うので
与一は今度は中差(なかざし。実戦用の殺傷能力のある矢)を弓につがってヒュンと放ちました。
踊っている武士はど真ん中を射抜かれて船底に逆さに倒れ伏してしまいます。

平氏の者たちは静まり返り、源氏は再び箙を叩いてどよめきました。
「 おお、やってやったぜ 」 と言う者もいれば
「 いやいやいや、心無さ過ぎっしょ。鬼かよ。ひどくない? 」 と言う者も多く居ました。

え、ちょっと待って、そこで殺すとか有り得なくない?とキレた平氏の人たちは
弓を持った一人、盾を構えた一人、薙刀を持った一人、
合計3人の武者が浜辺に上がり「 源氏のヤツラここまで来いやオラ! 」 と挑発してきました。

義経公は 「 つまんねー真似してんじゃねえぞ。
      バイク…じゃねえ、馬術に自信ある若えの何人かで突っ込んで蹴散らしてやれ 」
と言い、東京の美尾屋十郎(水尾谷、三尾谷とも。四男なのか十男なのか)、
四郎(三保谷四郎国俊?)、藤七、群馬の丹生四郎、
長野の木曽中次の五騎が雄叫びをあげて駆けました。

楯の影から、鷲(ワシ)の黒い保呂羽で作った大きな矢を射て、
一番に駆けていた美尾屋十郎の馬の胸を、筈(矢の一番後ろ)まで刺さるほどに射抜きました。
屏風がひっくり返るように馬はどうっと倒れ、美尾屋十郎は馬の左足を飛び越え
右に降り立つと太刀を抜き放ちます。
そこへまた楯の影から平景清が大薙刀で斬り掛かり、リーチ的に太刀じゃ敵わねーな、と思った
美尾屋十郎は一旦戦略的撤退ということで搔い伏して(体をかがめて)逃げましたが、
すぐに景清が追いかけてきました。
薙刀でバッサリ来るかな、と思っていたら、薙刀を左の脇に挟んで、右手で十郎の兜の
錣(しころ。兜の後頭部から首にかけてを護るピラっとした部分)を掴もうとしてきます。
掴まれたらヤバイと逃げます。
三度は掴まれても逃げたのですが、四度目についにむんずと捕まれてしまいました。
しばらく揉み合い、鉢付の板(錣の根本)をぶちっと引きちぎって逃げました。
その頃、同じく駆けてきた他の源氏の四騎は、馬の休憩とばかりにこれを見物していました。
(一騎打ちになったら邪魔できない的なことでしょうか)

そして十郎は味方の平家の馬の影に隠れて呼吸を整えていました。
平家の奴らは追ってきません。

その後、十郎から追い剥ぎした兜の錣を薙刀の先に突き刺し、高く掲げて大きな声をあげ
「 やあやあ、遠からん者は音に聞け、近くば寄って目にも見よ!
  俺こそは京のガキどもが噂している上総の悪七兵衛・景清だぜ!! 」
 (※悪さ=ここでは強さ、勇猛さを意味する。なのでこれは自虐ではなく自慢。
   あいつ千葉の狂犬って言われてる上総介の7男坊だぜ…と
   都で噂されるくらい俺は強いんだぜ、という意味)
と名乗りをあげてから、味方の楯の影に隠れました。(言い逃げ…??)

これを見て調子に乗った平氏の武士たちは
「 悪七兵衛・景清を殺されてたまるかよ、お前ら、景清助けに行くぞ、景清に続けー! 」
と、200人以上が浜辺に上陸し、雌鳥羽のように(ニワトリが左翼を右翼に少し重ねるように)
左に持った楯で右半身も覆うようにして並べ、
「源氏の野郎ども、ここまで来てみろや」と、手招いたのでした。
歌川国芳 源平盛衰記 讃州八嶋合戦
(歌川国芳・画 / 源平盛衰記 讃州八嶋合戦)

義経公は、そこまで言われたら無視できねえな、と
田代の冠者(田代信綱)を先頭に、後藤兵衛父子、金子兄弟をそれぞれ左手と右手に配置し、
伊勢の三郎を後ろにして、義経公は80騎以上を率いて鬨の声を上げて馬で駆けると、
平家の軍勢には騎馬武者が少なく、ほとんどが徒武者(かちむしゃ・徒歩移動の兵)だったので
馬にはねられたらヤバイ!と、少しも持ちこたえることなく退却して船に逃げ戻りました。
平氏が持っていた楯は算木(数え棒)がばらばらと散ったように蹴散らされました。
源氏はこの勝ちに乗じて、馬の腹が浸かるほど海に乗り入れて平氏に攻め入りました。

平氏は船の上から熊手や薙鎌で義経公の兜の錣(しころ)にからりからりと引っ掛けて
引き寄せて討ち取ってやろうとしますが、源氏の兵が太刀や薙刀で打ち払いました。
けれどどうしたことか、義経公が弓を取り落としてしまいます。
腹ばいになって馬用の鞭で弓を引き寄せて必死で取ろうとするので、味方の兵たちは
「 そんなモンもういいじゃないっすか。捨て置きましょうよ 」
と言うのですが、結局 義経公は弓を拾い上げて笑いながら戻ってきました。

老臣たちは皆それを非難して、
「 たとえ100万円とか1000万円とかのすっごい価値がある
  尊い弓だったとしても、あなたの命には代えられないのに 」
  (戦場で呑気に腹ばいになってるとかうちの大将は何やってんのォォォ、ということですね)
と進言しますが、義経公は
「 別に弓が惜しかったんじゃねえ。二人がかりや、三人がかりで張るような、
  為朝叔父貴が持ってるみたいな弓だったら、敵に渡ったって良かった。
  でもこんなフッツーの弱い弓が敵に拾われて、こんなモンが源氏の大将軍・九郎義経の弓だって
  馬鹿にされたら悔しいだろうが。だから命懸けで回収したんだ 」
と言うので、皆はナルホドーと感心してしまいました。(みんな素直か)

 為朝おじさん
  頼朝や義経の叔父にあたる源為朝(みなもとのためとも)。
  若い頃から暴れすぎて、13歳の時に父・為義によって大分県のあたりに追放される。
  でもそこでまた暴れて3年で九州を制圧して 『 鎮西八郎 』 と名乗る。
  (西方=九州をまとめた為義さんちの八男坊、的な意味)
  保元の乱では崇徳上皇の味方をしていた。
  男性の平均身長が今より10cm以上は低い時代において七尺(約212cm)の巨人。
  目のふちが切れ上がった強面。後の世に描かれた浮世絵では藤岡弘、さんに似てることがある。
  常人では引けないような強弓の使い手で、射た矢が鎧を来た人間2人を貫通したという記述がある。
  あと矢で300人が乗る船を沈めたという記述もある。それもう矢じゃなくてミサイルじゃないですか。
  弓を引きすぎて右腕よりも左腕が4寸(12cm)も長かった。進撃する巨人。こわい。
  『 鎮西八郎為朝外伝 椿説弓張月(ちんせつ ゆみはりづき) 』 (曲亭馬琴・作、葛飾北斎・画)に
  為朝さんの活躍が描かれているが、連載当時、あまりの人気に完結は延期され、番外編も書かれた。
  ジャンプの人気連載のようだ。馬琴さんが更に後に書いた長編が『 南総里見八犬伝 』。
  人気連載の後にまた人気連載が書ける馬琴さん、まじリスペクト。
  何はともあれ、為朝おじさんはFateでサーヴァント(アーチャーのクラス)に
  なれるかもしれないレベルの人気と信仰が昔からあった。

この日は一日中戦って、夜になってみたら、平家の船は沖に浮かび、
源氏は陸に上がって、牟礼高松(現・高松市牟礼町)の野原や山中に陣地を構えました。
源氏の武士たちはこの3日間 寝ていません。(それは眠い)

おとといは摂津国の渡辺・福島(現・大阪市の天満橋から天神橋のあたりと野田駅のあたり。
昔は瀬戸内海沿岸で最大の港があった)を出て、大風や大波に揺られて眠ることもできず、
昨日は阿波国の勝浦(かつら。現・徳島県勝浦郡-かつうらぐん)に到着するやいなや戦って、
夜を徹して中山(勝浦郡の山)を越えて、今日もまた一日中戦ったので、
人も馬も皆疲れ果てて、ある者は兜を枕に、
またある者は兜の袖や箙を枕にして、前後不覚の状態で寝ています。

しかしその眠りこける者の中に義経公と伊勢三郎の姿はありません。
義経公は高い所に登って、敵が攻めて来るかもしれないと見張りをしていました。
伊勢三郎は窪地に隠れて、敵が来たら、すぐさま馬のお腹を射ってやろうと待ち構えていました。

平家のほうも能登殿(平教経)を大将軍として、その晩に闇討ち仕掛けてやんよ、と思って
攻め入る準備をしていたのですが、越中次郎兵衛盛嗣と江見次郎盛方が
先陣争いをしている内に夜が無駄に明けてしまいました。(誰か止めろよ)
もしもこの時に闇討ちを仕掛けていれば、疲れ果てた源氏の軍勢はひとたまりもなかったはず、
ここで攻めれなかった平氏は、よほど運に見限られていたということでしょう。
(運というか統制が取れてないのが敗因ではないか)



---というのが平家物語に語られている 『 扇の的 』そして 『 弓流し 』 の段です。

いかがでしょう、ちょっと平家物語おもしろそうかも、と思っていただけましたでしょうか。
そして与一のことが気になってきた方は、栃木県大田原市にある那須与一伝承館や
香川県高松市牟礼町の駒立岩などを訪れてみてください。
あと平野耕太氏の漫画 『 ドリフターズ 』 をご覧ください。めっちゃ面白いですよ!

剣(つるぎ)

せっかくなので同じく平家物語11巻の天叢雲剣のお話も。
しつこいようですが、どうにか平家物語の面白さをお伝えしたい。
あとなんだったら、ここから剣の段に興味を持った誰かに
古事記と平家物語と源平盛衰記と太平記のそれぞれの剣の話を分かりやすく解説してほしい、
という個人的な下心満載でお届けします。
天叢雲剣以外の十拳剣とか鬼切丸とかもオマケで入ったバージョンとか、
平家物語に太平記の一部が混ざってたりと、作者や出版社によって色々な版があるので
同じ剣之巻でも中身が結構違ったりして良く分からなくなるんですよね…。

 icon-star 天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)
 icon-star 八咫鏡(やたのかがみ)
 icon-star 八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)
この3つの宝物が三種の神器と呼ばれています。
神代の時代に神からヒトに遣わされ、皇室に伝わってきた大事な宝物。

中でも天叢雲剣(草薙剣と呼ばれることも)は現在、
オリジナルと形代(レプリカ。同じ形にすることで神力を宿しているので、こっちはこっちで凄い)、
この2本が存在しています。

天叢雲剣(オリジナル)は三種の神器セットとして皇居に安置されていましたが、
1代目レプリカが造られてからはオリジナルは熱田神宮に移されて現在に至ります。
天叢雲剣(1代目レプリカ)は10代・崇神天皇が
『 神器と一緒に暮らすのは恐れ多い 』 ということで造らせたもので、
平家によって朝廷から持ち去られ、壇ノ浦の合戦の際に
安徳天皇とともに海底に沈み、行方不明になりました。
天叢雲剣(2代目レプリカ)は84代・順徳天皇が即位した1210年に
夢告(神仏が夢の中で託宣を授けること)によって伊勢神宮から贈られ、
皇居内の 『 剣璽の間 』に収められています。

三種の神器の所在をまとめるとこんな感じ。
天叢雲剣=草薙剣
 オリジナル…熱田神社に安置されている。
 初代レプリカ…安徳天皇と共に瀬戸内海に沈んだ。
 2代目レプリカ…皇居内の剣璽の間に安置されている。
八咫鏡
 オリジナル…伊勢神宮に安置されている。
 レプリカ…皇居内の宮中三殿・賢所(かしこどころ)に安置されている。
八尺瓊勾玉
 皇居内の剣璽の間に剣と共に安置されている。
 八尺瓊勾玉を継ぐ者が天皇となられるという由来から
 神器の中で唯一明確に皇室所有物となっている。

というところまでなんとなく覚えていただいて、以下はまた適当な平家物語の現代語訳です。

日本の朝廷には神代の時代より伝わる霊剣が3本ありました。
十握剣(とつかのつるぎ)
天蠅研剣(あめのははぎりのつるぎ=天羽々斬剣)
草薙剣(くさなぎのつるぎ)。

十握剣は大和国の石上振社(現・奈良県天理市の石上神社)に、
天蠅研剣は尾張国の熱田宮(現・愛知県名古屋市の熱田神宮)に、
草薙剣は内裏にありました。今の皇室に伝わる宝剣はこれでした。

 ※この記述と実際では納められている場所などが異なっている?

 ※十握剣…伊耶那美(イザナミ)が軻遇突智(カグツチ)という火の神を産み落としたことで
      焼け死んでしまい、怒った夫の伊耶那岐(イザナギ)がこの剣で軻遇突智を斬り殺した。神様怖い。
      柄だけで握り拳10個分(十拳)くらいの長さ(約80cm)がある。

 ※天蠅研剣…蠅=羽々=大蛇。須佐之男命(スサノオノミコト=素戔嗚尊)が
       八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を斬り殺したことからこの名がついた。

 ※天叢雲剣…須佐之男命が天蠅研剣で八岐大蛇をザッシュザッシュ斬っていたら、尾の辺りで剣が欠けた。
       何か硬いものがある、と縦に切り開いてみると立派な剣が出てきた。
       須佐之男命はこれを天照御大神(アマテラスオオミカミ)に献上した。
       八岐大蛇の頭上にはいつも厚い雲がかかっていた事から天叢雲の名がついたと言われる。
       天叢雲剣は色々あって伊勢神宮に奉納され、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が
       東征の際にこの剣で草を薙ぎ払って火攻めを逃れたことから、草薙剣とも呼ばれる。
       ナギ(蛇)という古語と、大蛇の生贄にされそうだったクシナダヒメ(奇稲田姫)のクシ、
       これらが由来で、そもそもはクシナギの剣だったとする説もある。

この草薙剣の由来はというと、昔にスサノオノミコトが出雲国の須我の里(現・島根県雲南市)に
宮殿(現・須我神社)を建てた時に、その地にいつも8色の雲(彩雲というやつですかね)が
浮かんでいたので、スサノオはこれをご覧になってこのように詠じました。

八雲たつ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を
(雲が生まれ幾重にも重なる出雲の地で、築いた宮を囲い巡らすように、8色の雲がたなびいている。
 俺も奥さんと一緒に住み護るために宮殿に何重もの防壁を作ったけど、
 ちょうどそんな感じに似ているね)

美しい彩雲の景色を褒めているのか、奥さんと新居にこもる浮かれた気持ちなのか良く分からない、
この詠い文句が三十一文字(みそひともじ。短歌のこと)の始まりです。
国の名を出雲としたのも、この美しい8色の雲からだとされています。

さて昔々、スサノオは出雲国の斐伊(現・島根県東部、船通山から宍道湖に流れる川)の川上に行った時、
国津神(土地神)の足名椎(アシナツチ。夫)と手名椎(テナツチ。妻)という夫婦の神様が居ました。
その二人の子として見目麗しい娘さんが居ました。
彼女は奇稲田姫(クシナダヒメ・櫛稲田姫)と呼ばれていました。夫婦と娘は三人で泣いていました。

スサノオが 「 一体どうした? 」 と尋ねると、
「 私には娘が8人いたのですが、大蛇の贄として毎年一人ずつ呑まれてしまいました。
 あと一人残っている娘(奇稲田姫)も今年の贄として呑まれようとしています。
  大蛇には尾と頭がそれぞれ8つ有り、それぞれが8つの峯と8つの谷に蔓延っています。
  霊樹異草(松や檜、苔など)を背に生やし、何千年生きているのかもわかりません。
  眼は日光や月光のように光り、毎年人を呑みこみます。 親を呑まれた子は悲しみ、
  子が呑まれた親は悲しみ、村の南にも北にも慟哭する声が絶えたことはありません 」
と答えました。

スサノオはこれを哀れに思い、奇稲田姫を 『 ゆつの爪櫛 』 に变化させて髪に挿して守り、
八つの舟に酒を入れ、美女に姿を変えて高い丘に立ちました。

 ※斎つ爪櫛・湯津爪櫛(ゆつのつまぐし)
  神聖で清らかな櫛。あるいは歯の多い櫛。
  奇稲田姫が、自分の魂の本性である 『 奇魂(くしみたま)=奇跡を起こして幸福を呼ぶ霊力 』
  となり、その力を具現化したものがこの櫛です。
  櫛の語源がそもそも 『 奇し 』や『 霊び(くしび) 』 から来ており、
  櫛というのは呪術的な意味を持つ神秘的なものだとされてきました。
  女性の霊力の象徴とも言われます。
  漫画 『 うしおととら 』 で、獣の槍の狂気に囚われた潮を正気に戻すために
  潮と関わりの深い女性達が潮の髪を櫛で梳る話がありましたね。
  (うしおととらをご存知ない方には申し訳ないですが)
  妖怪を殺すための獣となった潮が、潮を想う女性の手にある櫛で
  髪を梳り、人間の心を取り戻す、というのと
  荒ぶる力の象徴であるスサノオノミコトが、
  クシナダヒメの櫛を髪に挿して、奇魂の力を得る、と並べてみると少し似ていますね。

 ※スサノオの女装
  美女に姿を変えて、と書かれているのはこの平家物語だけであり、
  古事記にはそのような記述はありません。
  なんで女装の話が入ったのか。平家物語の作者の趣味か。
  奇稲田姫を護るために櫛に変えて髪に挿すくだりが女装っぽいと思ったのでしょうか。
  イカついスサノオがテキーラ娘(©ジョジョ)になったわけではないのでご安心ください。

美女(?)に扮したスサノオの影が酒に映り、ヤマタノオロチはそれを人と思って酒ごと飲み干し、
泥酔して眠ったところをスサノオは身に付けていた十握剣を抜き、
ヤマタノオロチをずたずたに切り裂きました。
その中でも尾の一つが全く断ち切れず、怪しいと思ったスサノオが
尾を縦に破り割いてみると一本の霊剣がありました。

スサノオはこの霊剣を天照大神(アマテラスオオミカミ)に奉納しました。
「 これは昔に高天原(天津神が住まう天の国)で私が落とした剣である 」
と天照大神はおっしゃいました。
ヤマタノオロチの尾の中にあった時は常に叢雲が覆っていたので天村雲剣(天叢雲剣)と名付けました。
天照大神はこれを手にして、天の御門(皇室)の宝としました。

その後、豐葦原中津國(とよあしはらのなかつくに)の主として
天孫(天津神の子孫・邇邇藝命 -ニニギノミコト)を日向国(宮崎県)の高千穂峰に降臨させた時に、
この天叢雲剣も八咫鏡(やたのかがみ)に添えて与えたのでした。

第9代・開化天皇の御代までは一つの宮殿に安置されており、
第10代・崇神天皇の御代になって霊威を畏怖したため天照大神を
大和国(奈良県)笠縫邑(かさぬいむら)磯堅(しかたき。場所は不明。後の伊勢神宮)に
遷移なさった時に、剣も天照大神の祭壇に奉納しました。
この時に剣のレプリカversion1 を造らせ、皇室の守りとしました。
その霊威(神力)はオリジナルに劣らないものでした。

天叢雲剣は崇神天皇から景行天皇までの三代に渡って天照大神の社の祭壇に安置されていましたが
景行天皇の御代である40年(西暦110年)6月、東国の反乱の間、
景行天皇の子である日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は心身ともに強く、人格も優れていたので
清撰(成選=勤務代度が評価されて官位が上がる出世の儀式)されて東国に下る時に
天照大神に詣でてお別れの挨拶をしていると、ヤマトタケルノミコトの妹である
五百城入姫皇女(いおきいりひめのおうじょ)を使者に遣わして、
用心して油断せずに行きなさいと、霊剣をヤマトタケルノミコトに授けられました。

さてヤマトタケルノミコトは駿河國(静岡県)に行きましたが、
地元のチンピラ達が絡んできて
「 この国には鹿が多いんで、ちょっくら狩りでもして遊んでってくださいよ 」
と、嘘を吐いてそそのかし、野に火を放って焼き殺してやろうとしたところ、
ヤマトタケルノミコトが腰にさばいていた天叢雲剣を抜いて草を薙ぎ払うと、
1里(4km)四方の草が風で薙ぎ倒されました。
今度はヤマトタケルノミコトが火を生み出すと、風はたちまちチンピラの方に吹いて覆い、
チンピラはもれなく焼け死にました。
(どの物語でもそうですが、古代はなんだか殺伐としていますね)
それから天叢雲剣を別名・草薙剣とも呼ぶようになりました。

ヤマトタケルノミコトは更に奥地へ攻め入り、3年間であちらこちらのチンピラを打ち倒し、
国々の骨のあるチンピラを掌握してまとめあげ、都に上りましたが
道中で病にかかって、30歳の7月に尾張國(愛知県)熱田のあたりでついに亡くなられてしまいました。
その魂は白い鳥となり、天に昇っていかれたのも不思議な出来事でした。

生け捕りにした夷(えみし。朝廷にまつろわぬ民のこと)達を
ヤマトタケルノミコトの子供である稚武彦王(ワカタケヒコオウ)が
第12代・景行天皇に引き渡しました。
草薙剣は熱田の社(熱田神宮)に納めされました。
天智天皇7年(西暦668年)に、新羅(朝鮮)の沙門(僧侶)である道行が
草薙剣を盗んで新羅の宝にしてやろうと、密かに舟に積んで逃げようとしましたが、
舟が進むにつれて波風が高くなり、たちまち沈没しそうになりました。
これは霊剣の祟りだと思い、罪を謝って、持ち逃げは諦めました。
そして草薙剣は元通り熱田神宮に納められました。

ところが、第40代・天武天皇の御代、686年にこれを内裏に置かせました。
今の宝剣はこれです。その霊威は強くあきらかであられました。
陽成院(第57代・陽成天皇)が精神を病んで霊剣を抜くと、
夜の御殿(よるのおとど。天皇の御寝所)が輝いて電光(稲光)のようでした。
恐怖のあまり霊剣を投げ捨てると、はっと音を鳴らして自ら鞘に収まりました。
昔々にはこのように有難い(霊威が現れる)出来事がありました。
たとえ二位殿(平時子。平清盛の正室)が霊剣を脇にもち海に沈んでしまったとしても
簡単に失うべきものではないと、優れた海士人(あまじん。素潜りのできる男性)を雇って
海に潜らせて剣を探索させ、更にその上、霊仏霊社に徳の高い僧を籠もらせて
数々の神宝を奉じて祈らせましたが、ついに見つかることはありませんでした。

その時の有識者たちの言う合うことには、
「 昔に天照大神が百王(代々の天皇)を守ろうという誓いをし、その誓いは未だ変わっておらず
  石清水(京都府八幡市の石清水八幡宮)の系譜も未だ耐えていないので、
  (天叢雲剣のレプリカが失われたとしても)太陽の光が未だ地に落ちることなく、
  末代(仏法が説く同義が絶え、人の情が失われた時代)に乱れたこの世の終わりが来たとしても
  帝のご運が尽き果てるようなことはないでしょう 」
と申し上げました。

その中に、ある博士が考えて申すことには、
「 昔に出雲国の斐伊の川上でヤマトタケルノミコトに斬り殺された八岐の大蛇が、
  霊剣を惜しむ心が深かったので、8つの首と8本の尾を表す徴(しるし)として
  人の天皇80代を経て、8歳の帝(第81代安徳天皇)となって
  霊剣を取り返して海に沈んだのでしょう 」
と言いました。

千尋の深い深い海の底で、神龍の宝となったのならば、
二度と人間の手には返ってこないのも当たり前だと思えました。




以上が平家物語 『 剣 』 の段に書かれている神器のお話です。
神様の力が宿った天叢雲剣(初代レプリカ)が瀬戸内海に沈んでるんですね…
夢と浪漫がありますよね~(・∀・*)

後白河上皇の不死鳥ぶり(パリピっょぃ・パート2)

さて、ここまでの平安末期のお話では香川県民として崇徳上皇寄りの気持ちでお送りしてきた
この記事ですが、別に後白河上皇が悪役という訳ではありません。
乱を起こした兄に自分が敗れたら、自分だけではなく
一族郎党や仲良しの友人が殺されるか失墜するのですから、本気で迎え撃つしかないですし。
戦乱も政変も、視点を変えればどちらが正しいとは言えなくなるものです。

むしろ、年若い頃から今様狂いと呼ばれ、暗愚極まると貶されていたパリピな宮様が、
よくその後の動乱を生き抜いて世を治めたものだとその強かさに感心してしまいます。
最終的に後白河法皇は生き残るものの、近臣たちはほぼ全滅しているので、
善政だったとはとても言えないでしょうけど、私はそれでも生き抜いた法皇様が結構好きです。

このコーナーではこれまでのお話を後白河上皇目線で想像してみたので、
なんやかんや大変だった時代を振り返ってご覧ください。
1156年、保元の乱で兄・崇徳上皇を打ち負かして勝利。
お兄ちゃんには悪いことしたけど、やらないとやられるから…
この辺りから武士がぶいぶい言わせ始めた。
野蛮なのはイヤだよね。みんな権力闘争とかやめて歌って踊ればいいのに。


1159年、平治の乱。
清盛の留守を狙って藤原信頼・源義朝がクーデターを起こして、
息子の二条天皇と一緒に皇居に軟禁(一回目の幽閉)される。
やばかった。なんとか逃げ出して清盛に助けてもらう。
参謀(兼 愛人)の信西がこの乱の犠牲になって首晒された。まじブルー。
しかも乱の首謀者の中に信西の栄達を恨んだ藤原信頼が居たのもいよいよブルー。
俺は信頼のことも俺なりに大事にしてたつもりだったんだけどな…
しかも参謀亡くして落ち込んでる間に息子の二条天皇に実権を奪われる。
あいつ俺の実の息子のくせに親父(鳥羽上皇)に育てられたせいで言うこと聞かねえからな。ムカつく。


1168年、六条天皇を退位させ、憲仁親王(高倉天皇)を即位させて再び政治の実権を握る。
あの父親(鳥羽上皇)に育てられた二条天皇とその子供の六条天皇より、
俺の愛する滋子ちゃん(平滋子=建春門院)との間にできた子供が
天皇位に就いた方がいいに決まってるじゃん。
滋子ちゃんが清盛の奥さんの異母妹だから、清盛も色々手伝ってくれて助かったな。


1169年、清盛が出家、後白河上皇も出家。
清盛が病治ってちょっと元気になったなーと思ってたらいきなり出家した。
あいつにも何か思うところとかあるのかな。
俺も出家してみた。これからは後白河法皇って呼んでね。


1173年、清盛と一緒に大輪田泊を改修工事して日宋貿易でボロ儲け。うぇーい。
でも最近の清盛チョーシ乗ってんな、と思わなくもない。
こないだ平時忠が 『 一門にあらざらん者はみな人非人なるべし 』 とか言ったらしいし。
平家じゃないヤツはまともな人間らしい仕事も生き方もできない、ってどんだけだよ。
平氏の人間をどんどん出世させてるし、隙あらば荘園領土は増やしていくし。
でも俺が権力握ってるの清盛のおかげなトコもあるから、チョーシ乗んなとも言いづらい。


1176年、建春門院が亡くなり、平氏との対立が激化。
今までは俺の愛する滋子ちゃんが
「 清盛義兄様は言葉が足りないだけなの。悪気があるんじゃないのよ 」
って清盛との仲を取り持ってくれてたから許せたけど、
滋子ちゃん居なくなったらマジあいつ何考えてんのか分かんねえ。ムカつく。
これだから野蛮な脳筋はヤなんだよ。もう平氏の武士なんて滅ぼしてやろうかな。


1177年、鹿ヶ谷の陰謀がモロバレして平氏との仲がいよいよこじれる。
おいおい待てよ多田行綱よお。なんでソッコーで清盛にチクってんの。
うちの側近達も洩れなく処刑されちゃったし、
清盛も警戒しまくってるし、もういきなり襲うとかできないじゃん…orz
でも平家の中では割と話がわかるタイプの重盛くんが
清盛を止めてくれて良かった…じゃなかったら俺もやばかった。
でも重盛くん、嫁さんの兄の藤原成親が陰謀に加担してたから
義兄の助命を!って清盛にお願いしたけどダメで、
あげく義兄が裏切ってたことになるから平家棟梁としてのメンツも潰れて、
ショックのあまり病気悪化したって聞いたけど大丈夫かな。
あと息子の高倉天皇が反抗期で、俺の言うこと聞かなくなってきた。パパは悲しい。


1178年、言仁親王(後の安徳天皇)が生まれる。
高倉天皇と平徳子(建礼門院。清盛の娘)の間に皇室の跡継ぎが生まれたことで、
平家の権力を盤石のものにしようとする清盛との仲が一触即発になってきた。
俺もうここまで来たら絶対この権力の座は譲らないから!こっちにも意地があっから!


1179年、治承3年の政変。
清盛の娘の盛子ちゃんと、息子の重盛くんが死んじゃったから、
そこの領地は朝廷のものにしたら清盛がマジギレ。
盛子ちゃん摂関家に嫁いでたんだし、摂関家領は皇室のもんじゃね?
あと重盛くんが治めてた越前も、国司に任命したの朝廷だから、一旦朝廷に返してもらっただけじゃん?
(っていう建前で清盛に渡さなかったんだけどね。慣例的には平家のもんになるはずだったんだけど)
平家が領土持ちすぎなのが悪いんじゃん。そんな怒んなくてもいいじゃん。
って呑気に構えてたらマジで清盛が攻めて来て鳥羽院に幽閉された。
2回目の幽閉。人生で2回も幽閉されるとかあるー?
俺の院政もここまでか…でも俺は諦めない。あいるびーばっく。
俺が幽閉されて院政が終わったこの一件が治承3年の政変って呼ばれてるやつ。


1180年、高倉上皇による院政が始まる。
反抗期の息子、ついに院政スタート。
まあ俺がやってんのずっと見てたからそこそこ良い感じに治めてるんじゃない?

同年、以仁王の令旨により源氏が挙兵。
息子の一人が源頼政と手を組んで平家滅ぼそうとしてるみたい。いいぞもっとやれ。
と思ってたらアッサリやられて死んでんじゃん…以仁よ…


なんかもう疲れたし、時間と金はあるから、ずっとまとめ続けてたお気に入りの今様で
ついにオムニバスアルバム作ったった。癒やされたい。
『梁塵秘抄』Now on sale,check it out!
神様さえ心動かされて神殿の梁に積もったチリが震えるような、そんな歌を集めてみたよ。


1181年、高倉上皇が崩御、その後すぐに清盛も亡くなる。
まじかよ息子。お前も享年20歳とか早死にしすぎだ息子。浄土の滋子ちゃんにヨロシクな。
清盛も、すげえパワフルだったのにそんなあっさり死なれたらビックリするじゃん。
でもおかげで 「 政の実務できる人が居なくなったんでお願いします 」 って言われて俺の院政復活!
割と復活早かったな。


1183年7月、木曽義仲に平氏討伐の院宣を下す。
倶利伽羅峠(現・富山県小矢部市から石川県河北郡)で木曽義仲が平維盛の大群を撃破して
平氏がついに都落ち。でも安徳天皇つれて神器持ち逃げしやがった。バチ当たるぞ。
まあでも義仲すげえや!と思って京に呼んで 『 朝日将軍 』 ってカッコイイ称号を与えたけど、
あいつの軍勢が好き放題に略奪暴行するせいで京の治安は最悪になるし、
以仁王の遺した息子の北陸宮こそが正当な皇位継承者だって
皇室の継承の話にまで口出してくるし、お前何様だよ。
あげくちょっと攻めてきたりするし、俺のこと幽閉するし。マジなんなの。
まあ幽閉も3回めなんでちょっと慣れてきたから、隙みて比叡山延暦寺まで逃げたけどさ。
強いしイケメンだし!と思ってたけど、やっぱ田舎モンはダメだ。礼儀を知らない。
まだ頼朝のほうが雅ってもんを分かってる感あるよね。


同年8月、後鳥羽天皇(尊成親王)を即位させる。
平氏が三種の神器を持ち逃げしたから、孫の後鳥羽天皇を
神器なしで即位させることになったのがまじ悔しい。
後鳥羽天皇もその事ずっと気にしてるし…
おじいちゃん、お前のために神器取り返してあげられなくてゴメンな。


同年10月、源頼朝に義仲追討の命を下す。
義仲には西国へ平氏追討の命を下して追い払っておいて、
その隙に鎌倉の頼朝に義仲なんとかしてって命令した。
そしたら頼朝の弟の義経と範頼が数万の大軍連れてきてくれた。
義仲がキレて抗議してきたけどもうお前なんか知らね。


1184年1月、源義経が義仲を討伐。
やったぜ義経。ていうか義経めっちゃ強いな。


1185年、壇ノ浦の戦いによって平家滅亡。
頼朝まじ野心家。義仲倒した義経を今度は切り捨てようとしてるし。
子供の頃のお前知ってるけど、なんかヤなやつになっちゃったよな…昔は可愛かったのに。
これ以上頼朝が調子乗ったら面倒だから、義経のほうを贔屓しようかな。
義経vs頼朝でもめて力弱まんねえかなーと思って義経に頼朝討伐の宣示を下したら、
逆に頼朝が北条時政を京に送り込んできて俺の立場がやばい。
しょうがないから頼朝に義経討伐の宣示を下してみたけど、
もう朝廷の権力じゃ頼朝をどうこうできないっぽい。


1190年、後白河法皇、鎌倉から上京した頼朝に会う。
お前まじでやなやつ。


1192年、後白河法皇の崩御。
ついに俺も力尽きる。でも俺は死ぬまで頼朝を征夷大将軍には任命しなかった。
それくらいの嫌がらせは別にいいでしょ。
ていうか頼朝、俺のこと手紙に 『 日本国第一之大天狗 』 って書いてたらしいけど、
俺からしたらお前や清盛のほうが厄介な曲者だったよ。



いかがでしょう、こうしてみると後白河法皇もかなりご苦労なさって
朝廷の権力を維持し続けていたんだなあと感心したくなりませんか?

まだ親王だった若かりし頃、父の鳥羽上皇からは
「いたく沙汰だしく御遊びなどありとて、即位の御器量にはあらず」(愚管抄より)
(楽器掻き鳴らしてめちゃくちゃ遊んでるって噂だし、天皇位に就くような器量じゃない)
と言われていました。

そして後白河法皇の乳母の夫であり、参謀であり、愛人でもあったと言われる信西でさえも、
結構な悪口を言っていたことが、九条兼実の日記 『 玉葉 』 の中に記述されています。
3月16日 晴れ。
「 信西入道が後白河天皇は考えなしの愚か者だけど、いいとこも2つはあるんだと頼業に語った話 」
朝廷のトップ官僚の頼業が俺のとこ来て言うには、何年か前に信西さんが言ってたらしいんだけど、
今上天皇(後の後白河法皇のこと)は、中国にも日本にも比べる相手がほぼ居ないくらいの暗君だって。
謀反の意を持つ臣下が傍に居るのにちっともそれに備えようとしないし。
人がこれを教えようとしても、やっぱり分かってくれない。
こんな物の道理の通じない愚か者は、今も昔も見たことも聞いたことも無い。
でもそんな陛下にも徳(美点)が2つある。
もし自分の心の通りに何かを成し遂げようと思ったら、
決まりごとなどにはこだわらずに、必ずその本懐を遂げるところ。
(賢君だったらこれは凄いダメな点になるんだけど。後白河天皇はダメすぎてこれを長所と呼ぶしか…)
その次は、自分が聞いたものや食べたものを、特に忘れないこと。
年月が経ったとしても記憶の引き出しにちゃんと残ってる。この2つが美徳だよ。

一番の臣下にこうまで言われる後白河天皇、そしてわざわざそれを日記に書いた九条さん…(=ФωФ=)

最終的には頼朝にまで 『 日本一の曲者 』 呼ばわりされた後白河法皇ですが、
趣味や性格は若かりし日からあんまり変わらなかったみたいで、
雅仁親王(後白河天皇)のパーリーピーポーぶりの一例 でもご紹介したとおり、
お気に入りの今様を集めて『 梁塵秘抄 』 としてまとめて
庶民の芸能を後の世に残そうとしたり、芸人のスポンサーになったりしていました。
ちなみに法皇時代に 『 小柴垣草子 』 というなかなかアレな絵巻物を作らせた説もあります。
この18禁官能小説(フルカラー挿絵・直接的文章描写あり)の
文章部分を実際に執筆したのが後白河法皇だとも。
芸術にこだわりのある法皇が作らせただけあって挿絵も手蹟も美しい絵巻物なので、
成人済みの皆さんは是非画像検索なさってみてください。
そして本当に自由な御方だったんだな…と後白河法皇に思いを馳せてみてください。


鎌倉幕府の成立は何年なのか(いい国つくろうじゃないとかそんな馬鹿な)

現在、鎌倉幕府が成立されたとする年には諸説があり、
学生さん用の日本史の教科書には 『 1185年 』 と 『 1192年 』 の2種類が書かれているそうです。
『 いいはこ 』 と 『 いいくに 』 ではだいぶ違う。
なぜこんな事になったのかというと、
・頼朝が 『じゃあ今日から俺の政権は鎌倉幕府な!』 と宣言したわけではない。
 後世のひとが、あの源氏政権は鎌倉が本拠地だから鎌倉幕府にしよう、と決めた。
・平家を滅ぼした時、政治の実権を握った時、征夷大将軍になった時。
 どれもが 『 頼朝の政権が成立した時 』 と言える。
・平家滅亡して頼朝の支配が全国に及んだ(守護・地頭の任命権を得た)1185年が幕府成立年じゃね?
ということから、1185年を推す人達が出てきたのだそうです。

諸説を並べてみると。
1180年、頼朝が平家打倒を掲げて東国武士をまとめ、侍所(警察・軍)を開き軍事実権を握る。
1183年、頼朝に寿永二年十月宣旨がくだされ、実質的に東国の支配権を得た。
1184年、頼朝によって公文所(政所=政務役所)及び問注所(裁判所)という支配機構が開かれた。
1185年、壇ノ浦の戦いによって平氏が滅亡。
    頼朝に守護・地頭職の設置・任命・任免権を与える文治の勅許が下された。
1190年、頼朝が日本国総追捕使(日本全国の警察行政権)と、
    日本国総地頭(日本全国の地頭職を任命でき荘園の管理や財政を握る権利)に任命される。
1192年、頼朝が征夷大将軍に任命された。これにより朝廷から独立した軍事政権を認められたことになり、
    頼朝以降、鎌倉時代から江戸時代にかけて武家政権の最高権力者は
    この征夷大将軍から将軍と呼ばれるようになる。

どれもアリっちゃアリですね。
それにしても新事実や新しい学説が出て来るのは素晴らしいことだと思うのですが、
せめてはっきり統一してくれないとテストの時に困りますよね。
ていうか年号覚えるより、なんでその時代がそうなったかを筋道立てて覚えるほうがよっぽど
大事だし楽しいと思うんですが、学校の授業だとそうもいかないのかもしれません。

あと個人的には良い国がいいんですけど。良い箱って言われても…
クラブとかライブハウスとか箱推しとかが頭に浮かぶだけなんですよね…。
でも北条政子が 「 わたし源氏の箱推しだからー 」 とか言ってたら可愛い気もする。



細川氏による讃岐の支配(鎌倉→室町→戦国時代)

平氏との争いに勝って鎌倉幕府を築いた源氏でしたが、武力でぶん取ったその地位は安定しているとは言い難く、
第2代鎌倉殿である源頼家も、第3代鎌倉殿である源実朝も暗殺され
源氏将軍および河内源氏棟梁の血筋は断絶。
その後は北条氏が実権を握って鎌倉時代は150年ほど続きますが、それもまた倒され、
後醍醐天皇が行った 『 建武の新政 』 によって天皇(朝廷)へ政権が戻り、
かと思えば3年後には後醍醐天皇 VS 足利尊氏(源義康が興した足利氏の子孫)の南北朝時代が来て、
56年間もの間、北の朝廷と南の朝廷に2人の天皇が並び立つという異常事態に。
そして最終的に争いを制した足利氏によって室町幕府が始まります。

さて鎌倉幕府が滅びた後、讃岐を治めることになったのは足利氏の一門である細川氏。
鎌倉幕府・源氏の残党や、後醍醐天皇側の兵力を抑えるために守護大名として讃岐国にやってきました。

それでは鎌倉幕府の滅亡から後の出来事をご覧ください。

1333年、後醍醐天皇と足利尊氏が手を組み、新田義貞らが鎌倉に攻め入る。
鎌倉幕府および執権政治を行っていた北条氏が滅亡。


1335年、後醍醐天皇に味方し建武の新政で功を得たことにより
舟木頼重が高松荘を与えられ、高松頼重と名乗るようになる。
高松城(別名・喜岡城)を築く。
この高松城は現在でいう高松城(別名・玉藻城)とは別物。

高松城の本丸があった場所は現在、喜岡寺(香川県高松市高松町)が建立されており、
境内には 『 高松城址 』 という碑が残っている。


同年、足利氏の一門である細川定禅(ほそかわ じょうぜん)が鷺田荘(現・高松市鶴尾地区)で挙兵。
この時、香西氏・詫間氏・寒川氏・三木氏らの讃岐豪族が細川定禅に味方し、
高松頼重の居る高松城を攻め、頼重配下の50余人が討ち死に。
高松城は落城し、頼重はなんとか生きて落ち延びる。


 香西氏らは 讃州藤氏・綾氏と家紋(松の人気ぶり) の項目で
 お話しした『 讃岐藤家六十三家 』です。
 藤原家成が讃岐守として赴任し、讃岐に藤原氏の血が入ってから約200年、
 あんまり中央の政変の大きな影響を受けない四国の土地とは言え、
 豪族たちはそれぞれの系譜を途絶えさせず、また戦を出来るだけの力を蓄えていたことが伺えますね。


1336年、細川定禅が足利尊氏の呼びかけに応え、四国・中国の兵をまとめて京に攻め入る。
湊川の戦いでは新野見(新居)小太夫ら讃岐武士が定禅に従って新田義貞と戦い勝利。


 この時、新田義貞が所持していた名刀 髭切も尊氏に奪われました。
 鬼切丸は清和源氏が伝えてきた家宝。
 そもそも平家物語の剣巻に語られる由来によると、
 平安時代、源満仲の命により揃いの二振りとして打たれたもの。
 試し切りで罪人の両膝まで一刀両断したから膝丸、
 もう一振りは同じく罪人の髭の先まで切ったことから髭切。
 なんて物騒な命名なんだ。
 膝丸は後に蜘蛛切に、更に後に吠丸、更に後には薄緑と呼ばれ、
 髭切は後に鬼丸(あるいは鬼切丸)に、更に後に友切、そしてまたもとに戻って髭切と呼ばれました。
 髭切は源頼光から頼光四天王の一人・渡辺綱に貸し与えられ、
 大江山の鬼を斬り伏せたとされる伝説の刀ですが、
 尊氏が奪った後から現在までその行方は知れないままです。もったいない。
 (あちこちにこの刀であるという由来の膝丸や髭切がありますが、どれが本当かは誰にも分かりません)
 ゲーム・刀剣乱舞にも登場しているので、この二振りについては
 逆に若い方のほうがご存知かもしれませんね。
歌川国芳 大江山入之図
(歌川国芳・画 / 大江山入之図)


同1336年、後醍醐天皇側の新田義貞・楠木正成を破った尊氏の軍勢は京に入り、
建武式目(尊氏が開く幕府の基本政治方針の17ヶ条)を制定。
後醍醐天皇から三種の神器を接収して光明天皇を即位させ実権を握る。
ここで比叡山に逃れた後醍醐天皇がその正当性を主張し開いていたのが吉野朝廷(南朝)であり、
尊氏が京都朝廷(北朝)と呼ばれ、2つの朝廷が並び立つ南北朝時代が始まる。


この頃、定禅の兄である細川顕氏が河内・和泉・讃岐守護を任される。
 湊川の戦い以降の定禅の動向が今に伝わっていないことから、
 定禅は亡くなり、その武功の分も顕氏に賞与が与えられたのではないかと思います。
 顕氏から続く系統は、顕氏の官位・陸奥守から 『 奥州家(奥州細川家) 』 と呼ばれるようになります。
 ちなみにこの細川顕氏の子孫が熊本藩主細川家・第17代当主である細川護貞、
 更に護貞の長男が第79代 内閣総理大臣の細川護煕です。


1338年、尊氏が征夷大将軍に任命され、室町幕府が誕生する。
初期の50年余りが南北朝の混乱の中にあったとはいえ、
この後、織田信長により足利氏が追放される1573年まで室町幕府が政権を握ることになる。


1362年、室町幕府での政争に敗れ、謀反の疑いにより北朝を追われて南朝についた細川清氏は
讃岐に逃れ、白峰合戦(現・坂出市林田町)において従弟の細川頼之と戦って破れた。
 細川清氏とその兵の36人は、頼之の軍に敵わぬと見るや全員が自刃し、その屍が
 白峰合戦古戦場(三十六や三十六さんと呼ばれる)に眠っていると言われています。
 現在その場所にには中山城山(江戸時代末期の讃岐の儒学者)の筆が刻まれた
 細川将軍戦跡碑が建立されています。


1400年代、細川氏による讃岐の支配が続く。


1573年、織田信長により足利義昭が京から放逐され、足利家の御料所(幕府直轄領)を支配。
事実上の室町幕府の崩壊と、信長から秀吉に続く安土桃山時代の始まりとなる。


1580年頃、細川定禅に城を攻められ落ち延びた高松頼重の子孫、高松頼邑が
香西氏の臣下となり、高松城を再建し城主となる。


1585年、高松城 城主・高松頼邑は長宗我部元親に従っていたことから
豊臣秀吉の四国攻めに遭う。
 総大将・宇喜多秀家が率いる約23,000人の攻め手に対し、
 長宗我部の援軍を入れても200人に過ぎなかった頼邑側は城を枕にことごとく討ち死に。
 これが讃岐の歴史における最後の戦となりました。


1590年、生駒親正が香東郡篦原庄玉藻浦に新たな高松城(玉藻城)を築城。
この城下を高松と呼ぶよう定めたため、今まで高松という地名で
呼ばれていた地域(現・春日町、新田町、高松町の辺り)は『 古高松 』 と改められた。

室町幕府は不人気?(いつかきっとベストセラーが)

235年の長きに渡り続いた室町幕府。
しかしこの時代は朝廷と幕府の権力闘争、あちらこちらの武士・豪族の台頭などの関係性が複雑で、
大河ドラマや漫画などでフィクションとして扱うには難しい時代でもあります。
私も印象が薄い時代だったというか、
学生時代の歴史の先生もそんなに好きな時代じゃなかったのか、すっごい駆け足で習ったので、
長い間 足利将軍の名前と応仁の乱くらいしか覚えてなかったです。

前半は南北朝の混乱があり、後期は戦国時代になだれ込んでいくので
どこからどこまでが室町時代か区切りがつけづらい。
後醍醐天皇が足利尊氏に負けて逃げる、朝廷が2つで天皇陛下も2人、とか
そういうのは、皇室への敬意的にもめっちゃ描きづらいし。
権力構図がごっちゃごちゃな上に、皆が時流に乗ってあっち行ったりこっち行ったり、
分かりやすい英雄や武人もあんまり出てこないので
大河や漫画にするにしても誰にどう焦点を当てるか選びづらい。
そのため室町幕府を題材にしたベストセラー小説や人気大河も生まれづらい。
そんな不遇の室町時代。

しかし室町時代には室町時代の良さがある…はず、です、たぶん。
そこで私的オススメ室町ポイントである室町文化についてご紹介したいと思います。

室町文化がスゴイ(剣術・連歌・侘び寂びお茶と盛りだくさん)

現代において日本の伝統文化として知られているな主な芸能・文化は
ほぼ室町時代に確立されたと言われています。

室町時代に独特で豊かな文化が生まれた背景としては、
足利氏が京都に幕府を開き、武家が進出したことにより
元々京の公家が育んでいた伝統文化(公家文化)と、
武家の力強い機能的な文化(武家文化)が融合したことが大きいといえます。
また農業だけでなく商業・工業も発展しはじめ、
庶民の地位と財力が向上し、庶民独自の文化も発展を見せるようになります。
平穏な時間ができたことで皆趣味に全力を傾けたんですかね。
この伝統文化を取り入れた新たな武家文化と、庶民が生み出した文化が
まとめて室町文化と呼ばれるようになりました。

金閣寺・銀閣寺の建立
金閣寺

3代将軍・足利義満が建てた別荘が、義満の死後に遺言に従って臨済宗のお寺となりました。
正式名称は鹿苑寺(ろくおんじ)、通称が金閣寺。
山号(お寺の称号みたいなもの)の北山(ほくざん)から、金閣寺に代表される建築様式や、
公家文化と武家文化の融合が進んだ文化などが総称して北山文化(きたやまぶんか)と呼ばれます。

1950年(昭和25年)、大谷大学の学生であり、金閣寺の見習い僧侶でもあった
林承賢(本名:林養賢)によって放火され、、国宝 足利義満坐像、
伝運慶作の観世音菩薩像、春日仏師作の夢窓疎石像などの10体におよぶ木像・文化財が焼失、
舎利殿(金閣)も全焼してしまいました。
皆が大事に守ってきたお寺になんてことを。
今の金閣寺は復元再建されたものです。
ただ、頂上の鳳凰像と「究竟頂」と書かれた額の2つは、火災の前にたまたま修繕などのために
取り外されており、焼失を免れて現存しています。
鳳凰像は元々銅に金箔を貼っていたもので、今は尾が折れてしまったので大切にしまわれ、
実際に設置されている像は近年に新しく造られたものです。

銀閣寺

8代将軍・足利義政(義満の孫)によって、その文化と芸術に対する情熱を注ぎ込んで建てられます。
正式名称は慈照寺(じしょうじ)、通称が銀閣寺。
山号の東山(とうざん)から、銀閣寺に代表される建築様式や、公家文化・武家文化・禅宗文化が融合し、
庶民も参加し花開いた文化を、北山文化と対比して東山文化(ひがしやまぶんか)と呼ぶようになりました。

義政は、『 悪御所(あくごしょ) 』 と呼ばれた暴君・足利義教を父に持ち、
後見として幕府に大きな発言権を持っていた日野重子を母に持ち、
有能で政治ができ、経済感覚にも優れ荒稼ぎをした鬼嫁・日野富子を妻に持ち、
乳人(めのと=養育係)だった今参局ら、自分が信頼していた側近は母と嫁によって追い出されます。
これ義政からすれば地獄絵図ですよね。
幼い頃に何も分からないまま将軍になって、母が後見として実権を握り、
ようやく物の道理が分かる年齡になり、失くなった父のような暴君にはなるまいと
真面目に仕事をしようとしたのに、全て母と妻が口を出してきて
挙句に自分が大事にしてた部下は追放されるか自害させられて。
「 もういいよ、俺じゃないとダメな書類にハンコ押してサインだけするから、後は母さんと富子がやれば?
  俺は好きな芸術に打ち込むから。俺が政治に口出ししない代わりに俺の趣味にも文句は言わないで 」
と義政はやさぐれてしまい、その結果として現在の日本文化の基礎となる豊かな室町文化が隆盛を迎え、
一方で、将軍不在の政治、後継者の問題、文化の発展に伴った世の乱れといった様々な要因が絡み、
かの有名な応仁の乱(応仁・文明の乱とも)を引き起こすことになったのでした。

義政は政治の面では微妙、というかやる気は無かったものの、趣味には全力を出し、
現代にまで残る畳敷きと障子の和室建築(書院造)を作り、立阿弥を重用し生け花を発展させ、
土佐光信や狩野正信といった絵師のパロトンになり、後の土佐派と狩野派という日本画の流派を生み出します。

書院造

室町時代中期に誕生した武家住宅の建築方式を書院造と呼びます。
現在の和室や日本家屋の建築方式の元になりました。

引き戸建具や壁で部屋を仕切り、床の間を作り、
違い棚を取り付けて、付書院などの座敷飾りを備えて、
襖・障子・雨戸などの建具を使い、床は畳。
ざっと書院造の特徴を並べると、現代の和室ほぼそのままですね。

生け花が生まれる

古代からアニミズム(八百万の神)的な信仰心により、
自然の中に存在する植物とそれに宿る力を家の中に招き、
社や祭壇の代わりの 『 神籬(ひもろぎ) 』 とする、という考えがありました。
美しい桜花にコノハナサクヤヒメの姿を見、それにあやかって美を願い、
枯れない常緑樹である松や柊に健康と長寿を願う、という感じでしょうか。
更にそこに仏教が伝わったことで、仏壇に備える仏花が一般的になっていきます。

そして室町時代の1462年、京都六角堂の僧侶・池坊専慶が武家に招かれて
器や花の形にこだわった花挿しを作ったところ、その見事さが評判を呼び、
それを真似て趣向を凝らした 『 生け花 』 が生まれました。
更に少し後、立阿弥が足利義政に重用されたことも生け花の発展の一因でした。

水墨画の隆盛

墨だけで描かれ、その濃淡によって奥行きや陰影を表現する技法で描かれる絵画。
鎌倉時代に禅とともに中国から日本に伝わり、室町時代に隆盛を迎えます。
特に室町時代後期の画僧・雪舟(せっしゅう)により大成されました。

雪舟の代表作は 『 山水長巻 』 、『 天橋立図 』、『 四季山水図 』 などがあります。
しかし雪舟の代表作よりも、
「 小坊主の頃に修行もせずに絵ばかり描いているので、和尚さんが怒って本堂の柱に縛り付けた所、
  雪舟は床にこぼれた涙を使って足で鼠を描き、あまりの上手さに和尚さんも絵を描くことを許してくれた 」
という説話のほうが覚えがある方も多いのではないでしょうか。
この説話は200年も後の画家紹介の本に書かれたものなので、真偽はちょっとアレですが、
それを書き記した狩野永納は、雪舟大先生ならそれくらいのことは…!
というリスペクトの気持ちがあったんでしょうね。

剣術

日本の剣術を辿っていくと全てがこの3つの流派のいずれかに行き着く、と言われている
兵法三大源流 』 である念流、神道流、陰流が生まれたとされるのも室町時代です。

念流(ねんりゅう)

兵法三大源流の中でも最も古い流派とされています。
始祖については、上坂半左衛門安久(うえさか はんざえもん やすひさ)を祖とする正法念流、
念阿弥慈恩(相馬四郎義元-そうま しろう よしもと)が祖とされる念阿弥流(慈恩流)の
2つの説があり、また後にいくつかの流派に別れました。
剣術の他にも、鎖鎌・棒術・捕縛術などの教えがあり、
後手必勝、自衛のための剣として農民や町民を中心とした庶民に広まった流派です。
撃劍叢談(備前国の藩士・源徳修により江戸時代に書かれた剣術流派の解説書)によれば、
 一念を持って勝つことを主とし、右の手を斬られたなら左の手で詰め、
 左右の手が無ければ噛り付いても一念を徹すよう仕込む。
 上略・中略・下略の3段の構えをもって敵の太刀と打ち合いひっしと当てる。
 最初の一太刀の強さは、修行を積んだ者であれば太刀の先にコメを一俵ひっかけたり、
 はしごをかけて人が登れたりするくらい強く、突きの速さも尋常じゃなかった。
 念流は江戸をはじめとして諸国に広まり、念流を継いだ樋口定次が開いた
 上州多胡郡馬庭村(現・群馬県高崎市吉井町馬庭)の道場で教えられた
 馬庭念流(まにわねんりゅう)が名高い。
と書かれています。

馬庭念流は現代まで継承され、今も群馬県多野郡吉井町馬庭に道場が遺っています。

念流は北辰一刀流の創始者・千葉周作との抗争、伊香保神社掲額事件でも知られており、
また、赤穂浪士の中でも随一の剣客だった堀部安兵衛が念流を修めていたと伝わっています。

神道流

室町時代中期に飯篠長威斉家直(いいざさ ちょういさい いえなお)によって創始されました。
現在まで途絶えること無く伝えられている武術・剣術の中では最古の流派。
新當流、天真正新當流、香取神道流とも呼ばれます。

香取神宮(剣の神である経津主大神-フツヌシノオオカミを祀る)と、
対になっている鹿島神宮(武道の神である武甕槌大神-タケミカヅチノオオカミを祀る)の
それぞれの神職に伝承されていた 『 香取の剣・鹿島の剣 』 を元に
日本武術史上、初めて決まった 『 型 』 を定めて百般に亘る武道の原型を体系化した、
剣術、居合、柔術、棒術、槍術、薙刀術、手裏剣術、築城、風水、忍術等も伝承されている総合武術。
ていうか一人でそれ全部できたらスゴくないですか。

相手の攻撃よりも速い攻撃によって一撃必殺を目指す実戦武術でありながら、
『 兵法は平法なり。敵に勝つ者を上とし、敵を討つ者はこれに次ぐ 』
(戦うための兵法は、平和のための方法にすぎない。
 戦うことなく勝つ者のほうが、敵を打ち倒す者よりエライ)
として、武道は人の心によるもの、善の心をもつ重要さを家直は説きました。

戦国時代の剣士・塚原卜傳や、竹中半兵衛、片倉小十郎といった名高い武将、
そしてこの次にご紹介する新陰流の開祖である上泉伊勢守信綱も神道流を修めています。

陰流

室町時代の1438年頃に愛洲久忠(愛洲移香斎-あいす いこうさい)によって創始されました。
陰之流、愛洲陰之流、猿飛陰流、影流とも呼ばれます。
剛が動であり陽なら、柔が静であり陰として、
相手の動き(心)を見る陰となり、好機と見れば一撃必殺、という剣術です。

陰流が後に弟子達の手によって発展し、上泉信綱により1560年代に新陰流として成立。
新陰流は後に信綱の弟子である柳生宗厳に伝えられ、柳生新陰流として名を知られるようになります。

ちなみに柳生宗厳とともに上泉信綱の元で新陰流を学んだ
宝蔵院覚禅房法印胤栄は、後に宝蔵院流槍術の始祖ととなります。
この新陰流や宝蔵院流槍術は、厳島神社をはじめとする寺社にて
奉納演武が行われる機会も多いので、ご存知の方も多いかもしれませんね。

能楽の大成

観阿弥、世阿弥が田楽・猿楽を元に流派としてまとめたもの。
囃子に合わせて謡曲を唄い、能面を被って舞うものであり、
悲恋、別離の嘆き、戦乱、神代の出来事といった比較的シリアスな題材が多いのが特徴です。
また、能楽の合間に演じられた寸劇・喜劇が独立した一つの文化として狂言となりました。

連歌が生まれる

和歌の5・7・5・7・7の詩運びを元に、
上の句(5・7・5)と下の句(7・7)をそれぞれ違う作者が詠む遊び(短連歌)が更に進化し、
5・7・5⇒7・7⇒5・7・5⇒7・7⇒…と続けていき、百句という長さで
一作品とする形式として完成したものを長連歌と呼びます。

室町時代初期から連歌が流行し、1356年頃には南北朝の北朝で摂政・関白などの要職に就いていた二条良基が、
連歌の師匠である連歌師・救済と共に 連歌集『 莬玖波集(つくばしゅう) 』 を編纂するなど
連歌の文化的な地位が高かったことが伺えます。
足利尊氏、足利義詮、佐々木道誉といった武将が詠んだ連歌がも多く残っています。
icon-asterisk 連歌=つくばの道
莬玖波集のタイトルの由来は、連歌のことを 『 つくばの道 』 と呼んだことから。


『 古事記 』などに書かれているところによると、ヤマトタケルノミコトが
東征(朝廷にまつろわぬ民である蝦夷の討伐)に赴き、
甲斐の国へといらっしゃり、酒折宮においでになった時。
そこでヤマトタケルノミコトが
新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる
 (常陸新治と筑波を過ぎて、もういくつの夜を過ごしたかな)
と歌ったところ
かがなべて 夜には九夜 日には十日を
 (日を重ねて もう9夜、夜が明けたら10日ですねえ)
と、御火焼之老人(みひたきのろうじん)が歌を続けて応えました。
日数を覚えていたのはもちろん、歌としてすぐに返せる聡明さに感じ入ったヤマトタケルノミコトは、
老人を取り立てて東国造(あずまのくにのみやつこ=東の国をまとめる役)の地位を与えたのです。
この故事から連歌の別名が 『 つくばの道 』 と呼ばれました


※かがなべて、の部分については 『 日日並べて(日数を重ねて) 』 と
『 屈並べて(指折り並べて) 』 の2つの説があります。
私としては 『 カガ(蛇の古語) 』 を 『 なべて(平らげて) 』 、として
「 蛇神を信仰していた蝦夷を平定して 」 とかでも面白いなと思います。


※記述をどう取るかによって、この歌のやり取りの意味も変わってきます。
御火焼之老人が何者か、という点に注目すると
・従者の中にいた篝火に火を付けるだけの役目のおじいちゃん
 (地位が高くない者の意外な才能が発覚)
というのが一般的な説です。
以下は私が妄想してみた解釈。
・捕虜の蝦夷のおじいちゃん、服従の印としてタケルのために篝火を燃やす
 (知恵と風雅を解するところを示して、蝦夷にしてはやるじゃねえの、と恩赦を与えられ出世する)
・退魔の火を焚く酒折宮の神職のおじいちゃん
 (一緒に旅してたわけじゃないのに不思議パワーで日数を察知)
このように、読み方しだいでそれぞれ全く話が変わってくるので古文は面白いですね。

連歌には式目と呼ばれる基本ルールがあり、
連歌が式目に則っているかを審判する宗匠という役目もありました。

式目の一部がこちら。
発句(ほっく)
一句目である発句には必ず季語と切れ字(かな、や、けり等)を入れること。
賓客が要る場合はその人が発句を詠むこと。

挙句(あげく)
連歌の最後の句。 “挙句の果て”の語源。

輪廻(りんね)
似たような言葉、同じイメージの言葉は使わない。
ラップが韻を踏むのとは真逆ですね。

去嫌(さりきらい)
輪廻はダメだけど、草木や魚など決まったお題に添った
『賦物(ふしもの)』であれば良い、とされる。
賦物=『物』を『賦 (くば)』る、つまり物の名前を歌の中に割り当てて詠むこと。

雅って難しい。これを即興でとか絶対ムリです。
ほんとに昔の歌人の人達の脳の回転速度と語彙力が信じられませんね…!(; ・`д・´)
今で言えばラッパーのフリースタイルバトルみたいなものなのだろうか。
そうなるとラップも雅である可能性が…?

太平記が書かれる

鎌倉時代から南北朝時代にかけての動乱を描いた軍記物。
全40巻の長編で、歴史文学の中では最長と言われます。
作者や成立時期は不明ながら、その完成度と長さから
作者は一人ではなく複数人居たという説があります。

上で面白い読み物としてオススメした平家物語と双璧を成す大作です。
平家物語が、源氏と平氏の争いを、物語として情感を込め、尚且つ無常観を込めた作品で、
琵琶法師によって切々と歌い上げられ広く伝わったもの。
太平記は、朝廷と武家(足利氏)の争いを、そして室町幕府の権力闘争を、
リアルタイムで追いかけ記した作品で、物語僧らによって太平記講釈(太平記読み)として広まったもの。

それぞれの呼び込みを現代風に考えてみるとこんな感じですかね。
琵琶法師 「 驕れる者は久しからず…ビィィン(←琵琶の音)さてこのように、
      栄枯盛衰が世のならい、不変なことなど何もないということでございましょうか… 」
太平記読み 「 南の朝廷を興した後醍醐天皇と尊氏殿との争いは激しくなるばかり。
 太平の世はいつになったらやってくるのか、それはこの後みなさんがその目で御覧じろ!
 明日はついに!湊川の戦い!乞うご期待!カンカン(←拍子木の音)」

御伽草子が生まれる

鎌倉時代末期から始まった御伽草子の文化は室町時代に隆盛を迎えます。
平安文学が貴族の恋愛で長編小説が主流だったのに対し、
御伽草子では絵入りの短編が主流で、扱われる題材は民間伝承や庶民の立身出世を描いたもの。

室町時代に書かれた御伽草子で今でも有名なのは『浦島太郎』や『一寸法師』、
なんか聞いたことあるような、日本昔ばなしで見たような…というのは
『ものくさ太郎』、『酒呑童子』、『鉢かづき(鉢かぶり姫)』でしょうか。
・超めんどくさがりが真面目に働いた途端に美人の嫁をもらう上に実はめっちゃいい血筋だと判明する。
 (ヤレヤレ系ニート主人公がご都合主義によりチートに目覚めて王女様ゲットする話)
・源頼光と彼に従う四天王が家宝の刀で鬼を斬る、英雄による悪者退治。
 (5人がパーティー組んで伝説の剣でラスボス倒すまでの話)
・神様のお告げで大きな鉢を頭に被されて育ち、いじめられていた女の子が実は超美人で玉の輿に乗る。
 (眼鏡を外すと超美人、いいとこの坊ちゃんに見初められ、という少女漫画的お約束)
こうしてみると、今も昔も人々が好むキャラクターやストーリーは
そんなに変わってないのかもしれませんね。

茶の湯が生まれる

飲んだ水の産地を当てる闘水から派生して、飲んだ茶の産地・銘柄を当てる闘茶という遊戯が生まれ、
またその当たり外れを賭ける博打が流行します。
一方、中国茶器の 『 唐物 』 が大名達の中で流行し、
高価な唐物コレクションを見せびらかし茶会を開くことがステータスとなりました。

・能阿弥が考案した、和歌を詠む場=会所の茶、その飾り物や点て方、連歌の精神
・一休宗純(一休さん)の戒律や形式に囚われない、風狂な禅の精神
それぞれの教えを受け継いで追求した村田珠光がわび茶の創始者と言われます。
珠光の茶は、博打や豪奢な茶器よりも、もてなす心や、主人と客の交流を重視するものでした。

この後、安土桃山時代にわび茶は、財力と権力を持ち堺を支配していた
町衆(合議制で自治を行う組織)である武野紹鷗(たけのじょうおう。PCやスマホの
日本語環境によっては表記できない漢字のため『紹鴎』と表記されることも多い)と、
その弟子の千利休らにより大成され、大名の間で茶の湯ブームが起きました。
また、利休により 『 侘び寂びの精神 』 が生まれることになります。

香道

香りのついた木、香木(沈香)の香りを
・聞いて鑑賞する聞香(もんこう)
・聞き分ける遊びである組香(くみこう)
これらが香道と呼ばれます。

この頃、それぞれに異なる香りを有する香木の分類法である
『 六国五味 』(りっこくごみ)なども体系化されました。

六国(昔は産地で、現在は品質で分類)
伽羅(きゃら)…たとえば宮人のような、たおやかで優美な香りの最高級品。
羅国(らこく)…たとえば武士のような、苦味をもった自然と香る白檀のようなもの。
真南蛮(まなばん)…たとえば百姓のような、甘く油が垂れてくるような、伽羅などに比べ品の下がるもの。
真那加(まなか)…たとえば女性の心のように、クセがあって艶やかで、香りがすぐに薄れる上品なもの。
佐曽羅(さそら)…たとえば僧のような、冷たく感じる鋭さがあるが、しだいに軽くなり伽羅に似た感じもある。
寸聞多羅(すもたら)…たとえば庶民が無理して良い服を来たような、
           なんか酸っぱいような、でも一瞬伽羅かと思ったけどやっぱり下品な感じ、という香り。
      
五味(香りの風味で分類)
一つの香木に複数の味とする場合もあります。
辛…香辛料の丁子(クローブ)のような、喉にくるような辛み
甘…蜜を練るような甘み
酸…梅肉のような酸っぱさ
苦…黄伯(キハダ)のような、漢方薬のような苦み
鹹(カン)…人の汗のような、あるいは海藻を火にくべたような塩辛さ



香木としては伽羅、沈香(じんこう)、白檀(びゃくだん)などの名前が有名ですね。
高価で、香りをたてるには加熱が必要な伽羅や沈香に比べると、
白檀は常温で香る手軽さとお値段の手頃さからお持ちの方も多いかもしれません。

白檀というとあまり耳慣れない方も、サンダルウッドという英名なら
香水の原材料名として聞いたことがあるのではないでしょうか。
BVLGARIのブルー、Christian Diorのプワゾン、CHANNELのエゴイスト、
GUCCIのエンヴィミーといった数多の有名な香水に配合されています。

仏像自体が白檀で出来ていたり、数珠や仏具が白檀のことがあるので、
お寺などで、線香や板の間の匂いとは違う、甘い、なんだかくらっと来るような香りを
感じたらそれがたぶん白檀の香りです。
白檀の匂いは、人の汗の匂いにちょっと似てるからくらっとするのかなあ、
あとそのせいで人肌になじむので香水に良く使われてるのかなあと私は思っています。
五味で言ったら 『 甘 』と『 鹹 』 、あとほんのちょっとの 『 苦 』 なのかもしれませんね。

婆娑羅

婆娑羅とは、好き勝手な振る舞いをすること、豪奢で華美な身なりで派手に見栄を張ること。
派手なカッコしてぶいぶい言わせてるひとのことを婆娑羅者と呼びます。
中でもこのような立ち居振舞いをする大名のことを婆沙羅大名と呼びました。
高師直や、近江国(滋賀県)守護大名の佐々木道誉(高氏)、
美濃国(岐阜県)守護大名の土岐頼遠らが婆沙羅大名として有名です。
室町幕府の基本方針を示した『建武式目』では婆娑羅な振る舞いを禁止する項目があり、
『太平記』でも、婆沙羅大名は宜しくない、婆娑羅な振る舞いは国が乱れる元だと否定的に書かれています。

ちなみに、戦国BASARAというゲームがありますが、
戦国時代には婆娑羅という言葉は廃れ、傾奇、あるいはうつけ、という言葉に変わっていたので
まあ戦国BASARAの世界は史実を突き抜けたパラレルワールドなので間違いという訳でもないのですが、
戦国物の小説でも書こうかなと思っている方はご注意ください。

高師直(こうのもろなお)
婆沙羅大名といえば、で多分真っ先に名前が出て来る婆娑羅なひと。
代々足利氏の執事を務めていた高氏の出身で、師直も足利尊氏の筆頭執事となり、
武勇に優れ、幕府軍のトップとして尊氏の敵を次々に撃破するのですが、
『 太平記 』 では
・罪を犯した家臣が 「 罰として領地没収された 」 と嘆いていたのを聞きつけ
 「 幕府の命令なんてほっとけよ。居座れ 」 とそそのかす。
・「 恩賞でもらった所領が狭い 」 と文句を言っていた家臣には
 「 隣の寺社の所領が広いじゃん。戦って奪えば? 」 とそそのかす。
・手が早い。人妻でも構わずぐいぐい行く。
といったように、なかなかアレな人柄として描かれています。
しかしここまで酷いひとがそうそう筆頭執事にもなるまいということで
太平記では悪役として話がかなり盛られているのではないかと現代では疑問視されています。

狂言だけでも覚えて帰ってください(コント好きな方は是非)

能楽も狂言も、見ても聞いても意味わかんねーなと思われる若い方も多いと思うのですが、
今風にいえばが『 ハムレット 』 や 『 エリザベート 』などの正統派ミュージカル(主に悲劇)で
狂言は よしもと新喜劇風の日常系コントです。
ついでに言えば歌舞伎はヤンキーが始めたストリートダンスが進化して
ストーリーも付くようになった舞台演劇っぽい。
劇団EXILEさんがやってる舞台みたいな感じですかね。

狂言が一番分かりやすい言い回し、かつ笑えるコントなので、
まず狂言を聞き慣れてから能楽をご覧になるととっつきやすいかも。
ストーリーの分かりやすさから私が一番最初におすすめしたい狂言の演目は 『 蝸牛 』 です。
蝸牛とはカタツムリのこと。
太郎冠者(使用人の太郎くん)は、仕えている主人から
「 おじいちゃんの長寿の薬(漢方的な?)に蝸牛が要るから取ってきて 」と命じられます。
しかし太郎くんは生まれてこの方、蝸牛というものを見たことがありません。
コンクリージャングル育ちの都会っ子か。


「 蝸牛ってどんな感じのモンで、どこにいるモンすか 」
「 おいおい蝸牛知らないとかマジかよ 」
「 知らないもんは知らないんですって。なんかこう…特徴とか教えてもらえたら多分イケますんで 」
「 ほんとかよ…じゃあ教えるけど、蝸牛は
 ①土から生まれて藪に住んでる
 ②頭が黒くて、腰に貝を付けてる
 ③時々ツノを出す
 ④長く生きたものは人くらいの大きさになったりするって噂。
 だから出来るだけ大きいの取ってきてね 」
「 藪…貝…ツノ…最大サイズが人… 」
「 大丈夫かなコイツ。まあいいや、行って来い 」
「 かしこまりー 」


一方その頃、旅の途中の山伏は寝るのに良さげな藪を見つけてゴロゴロしています。
そこへ蝸牛を探す太郎くんがやって来ました。
「 全くご主人様もさあ、いきなり蝸牛取ってこい言われても
  意味わかんねーっつーの。でも逆らえない、雇われの身の悲しさ 」
「 ぐう…zzz _(:3」∠)_ 」
「 あれ?藪の中で頭黒いやつが寝てる。蝸牛じゃね?ちょ、起きて起きて 」
「 ん?誰お前 」
「 私は私ですけど。そんなことより貴方は蝸牛さんじゃありません? 」
「 俺が?蝸牛?なんで? 」
「 藪にいて、頭黒いから 」


山伏を蝸牛と思い込んだお馬鹿な太郎くんを、山伏は一つからかってやろうと思い付きます。
「 俺オレ。俺が蝸牛。 」
「 やっぱり! 」
ホレ、と黒い頭(兜巾)、腰に貝(法螺貝)、ツノ(装束の結袈裟)を見せつけられ、
いよいよ太郎くんは山伏が蝸牛だと確信。
一緒にご主人様のところへ行ってほしいという太郎くんですが、
えー急に言われても、俺にだって都合があるし、とゴネる山伏に、太郎くんは是非にとお願いします。


「 まあそこまで頼まれちゃ仕方ねえな。でもとりあえずテンション上げるために囃子ながらいこうぜ。
 お前が 『 雨も風も吹かぬに 出ざ 釜打ち割ろう 』 って言ったら、
 俺が 『 でんでんむしむし 』 って言うからな 」
「 何それ、めっちゃ楽しそうっすね! 」
「 よし、じゃあいくぞ! 」
「 雨も風も吹かぬに 出ざ 釜打ち割ろう~♪ 」
「 でーんでーん むっしむしー♪ 」


YES!Hooo,Yeah!くらいのテンションで、でーんでーん むっしむしー♪の
浮かれたメロディーに合わせて歌い踊りながら移動する二人。
それを太郎くんのご主人さまが発見。
「 太郎…?遅いと思ったらお前なにやってんの? 」
「 あ!ご主人様!蝸牛を連れてきたっす! 」
「 蝸牛?どう見ても山伏じゃん 」


山伏だよね?と詰め寄るご主人様、
え?蝸牛じゃないの?と混乱する太郎くん、
いや俺蝸牛っすよ、とごまかす山伏。


「 俺を騙したんすね…! 」
「 いやいや、騙してなんか…ハイ、でーんでーん むっしむしー♪ 」
「 雨も風も吹かぬに 出ざ 釜打ち割ろう~♪…ハッ!つい歌ってしまう! 」
「 ハイご主人様もご一緒に、SAY!でーんでーん むっしむしー♪ 」
「 でーんでーん むっしむしー♪…ハッ! 」
謎のリズミカルなメロディーに巻き込まれて歌い踊る三人。カオス。
結局、太郎くんを騙していた山伏は罰を受けることなく踊り逃げるのでした。

このような内容で、伝統芸能クオリティでお届けされるコント。
是非、実際に演じられているところを見ていただきたいです。
寺社の奉納狂言で演じられることも多いので鑑賞できる機会は多いはず。
すげえいい声で鼓とかも合わさって「 でーんでーん むっしむしー♪ 」 と唄われるので
脳に灼きついて離れなくなるんですよね…。

ちなみに囃子詞の部分は
『 雨も 風も 吹かぬに 出ざ 釜 打ち割ろう 』
 (雨も風も吹かないのに、顔を出さないってんなら殻を打ち割るぞ)
『 でんでんむしむし 』
 (出よ 出よ 虫)
という意味で、童謡の 『 かたつむり 』 の元になっています。

もうひとつご紹介すると、こちらは月岡耕漁の浮世絵・能楽図絵の 『 狂言 蟹山伏 』 。
右に描かれているのが山伏ですね。

修行して凄い神通力を手に入れたぜ!とチョーシに乗ってる山伏が
部下のゴーリキ(強力)くんを連れて地元に帰る途中、突然 異形の化け物が現れました。
何者かと誰何する山伏に化け物は
 二眼(じがん)天にあり、一甲 地に着かず。
 大足二足(たいそく にそく) 小足八足(しょうそく はっそく)、
 右行左行(うぎょうさぎょう)して遊ぶ者の精にてあるぞとよ

 (両目を天に向けていても頭は地面に着かず、
  大きな足が2本、小さな足が8本、
  右往左往あっちこっちと遊んでいるものだよ)
と、謎掛けのようなことを言います。
それを聞いた山伏は 「 蟹の精か! 」 と気付き、
ゴーリキくんも 「 蟹っすか!食べましょう! 」 と蟹の精に襲い掛かりますが
(ゴーリキくんの脳筋&単細胞ぶりがいっそ清々しい…良くそれを食べる気になるよね)
あっさりやられて耳をハサミで挟まれてしまいます。
山伏はその法力でもってゴーリキくんを助けようとしますが一向に効き目がありません。
挙句に山伏の耳も挟まれ、痛い痛いと嘆く二人をぽーんと投げ飛ばした蟹の精に逃げられてしまうのでした。

蝸牛になりすまして太郎くんを騙したり、蟹の精に敗北したり。
このように、狂言において登場する山伏は、大体の場合はちょっと悪いやつだったり、
お調子者だったり、こてんぱんに懲らしめられる役だったりします。
これは平安時代の頃には庶民から 『 厳しい修行に耐えて法力を得るとかすげえな 』と尊敬されていた山伏が、
鎌倉・室町と移り変わる時代とともに 『 山伏ってあれでしょ?なんか山に篭って修行してるんだよね?
良く知らないけど、どうせあーいう徳の高い法力持つような山伏は、俺ら庶民のことなんて馬鹿にしてんだろ 』
という当時の民衆が抱くようになった反感や揶揄の気持ちが反映されているのかもしれませんね。

佐藤志摩介道益による栗林公園の始まり(やっと栗林公園の話まで来た)

佐藤志摩介道益は、室町時代末期から戦国時代初期にかけて
栗林町にほど近い、高松市伏石町の辺りに住んでいた豪族(国侍)です。
志摩介さんは鹿紋胴(きもんどう)と呼ばれていた場所にあった
讃岐鹿紋胴城(佐藤城、伏石城とも。現在城址などは残っていない)の城主として
讃岐国の国人だった香西佳清に仕えていました。
香西佳清が織田信長についた際には、志摩介さんも使者として上洛したのだとか。

香西氏の改易(身分剥奪・所領と財産の没収)後は、仙石秀久に仕え、
仙石さんが失脚してから後には生駒親正に仕え、と、トップが代わるのに何とかついていき、
生駒氏の時代(1595年~)に志摩介さんが任されていた土地である、
香東川の河川敷近くに別邸と小さな庭を造ったのが栗林公園の始まりと言われています。
やっと栗林公園の話が出てきました…ここに至るまでが長くて当初の目的を忘れるところでした。

志摩介さんの元主・香西佳清(二つ名は“盲目の大将”)

香西氏は讃州藤氏の流れを汲み、香東、香西、綾南条、綾北条などの郡を治めている、
讃岐東部において最大の勢力を有する国人(豪族。領主のような役割)でした。
その香西氏の18代目当主たる香西佳清は、激動の戦国時代に家督を継ぎ
戦乱に巻き込まれていくことになります。

いくつかの城を所有していた佳清は、
いざという時の城塞として勝賀城(現・高松市鬼無町佐料の勝賀山の山頂。
現在は山中に土塁などの跡のみ残る)を、
平時の住まいとして佐料城(同じく現・高松市鬼無町佐料の勝賀山、現在の奥津神社付近。
近隣に堀の跡が残る)を使い、
後に長宗我部元親の侵攻に備えて藤尾城(現・高松市香西本町の磯崎山、宇佐八幡神社のあたり。
ほぼ痕跡は無いが周辺の区画から当時の城郭周りを想像できるかもしれない)を築いて移り住みました。

織田信長と三好三人衆(ゲーム・戦国BASARAで松永久秀さんのとこにいた、
減った分だけ足せばいい人たち)の摂津福島での戦いの折、三好三人衆方につき参戦したのですが
陣中で疱瘡(天然痘。伊達政宗が片目を失ったのも同じ病といわれます)にかかり、
1570年、17歳という若さで両目とも失明してしまいます。
しかしその後も戦場に居続けたため 『 盲目の大将 』 と呼ばれるようになりました。
そのちょっと中二心をくすぐる二つ名とともにゲーム・織田信長の野望にも登場します。

家督を継いでからの香西佳清の一生を箇条書きにしてみます。
・父が毛利氏の傘下である村上水軍の家臣・島吉利に敗れ戦死して15歳(8歳という説も)で家督を継ぐ。
・三好氏について参戦した陣中で病のため失明。
・従っていた三好氏が織田信長に降伏、香西氏も信長に恭順を示す。
・四国統一を狙う土佐の長宗我部元親が讃岐西部の国人達と手を汲み、香西氏と対立。
・離縁した妻の実家が離反。これより内紛が続く。
・そうこうしている間に力をつけた元親が次男・香川親和に命じて讃岐侵攻を始める。
・同じく讃岐の国人である香川之景(既に元親に従い、親和の養父となっていた)の説得により
 長宗我部氏に降伏して以後は恭順する。
・1585年、羽柴秀吉による四国攻めに対し、長宗我部氏につき抵抗。
・圧倒的な兵力差に長宗我部氏が敗北し、香西氏も降伏。
・香西氏は改易され、讃岐藤原氏・藤原章隆から360年にもおよぶ讃岐国人としての歴史が終わる。
・佳清は後に讃岐の国主となった仙石秀久や生駒親正から
 扶持を与えられて余生を送り、36歳で亡くなった。

本当に激動の生涯ですね。
この頃の武将の方々というのは多くがそうかもしれませんが、なんかもう踏んだり蹴ったりというか。
あと元親さま、香西氏のためにももうちょっと頑張ってほしかった。
いやでも粘っても秀吉には勝てなかっただろうし、ヘタに討ち死にが増えるよりは降伏して良かったのか。
しかし香西氏の改易によって、治めていた城のほとんどが廃城となったのも残念です。
今も残っていたら観光名所にできたかもしれないのに…!

牛鬼(うしおに)伝説と根来寺

戦国時代の元亀(天正の前、1570~1573)の頃、青峰山(あおみねざん。現・香川県高松市中山町)に
牛鬼と呼ばれる怪物が出没しては、山の麓の村人や飼われている家畜を襲っていました。
困った村人は、偉い人になんとかしてほしいと願い出ます。
それを聞いた香西佳清は、香川郡井原郷安原(現・高松市塩江町)に住んでいた
弓の名人・山田蔵人(くらんど)高清に牛鬼退治を命じました。

蔵人は早速 青峰山に行って牛鬼を探しますが、
相手は神出鬼没の怪物で上手く遭遇戦をすることができません。
そこで蔵人は、山中の根香寺(現・高松市中山町、第82番札所)にこもって、断食祈祷を行いました。
(しかし何故に昔のひとはそんなに断食して祈祷するんでしょう、
 お腹が空いたら牛鬼を退治する力も出ない気がするのですが)

そして祈祷の満願の日、根来寺からほど近い千尋嶽(ちひろだけ)という谷の下に光るものを見つけ、
谷の下、鬼が原と呼ばれていた場所まで行くと、そこに牛鬼が居ました。
光っていたのは皿のように大きな牛鬼の目だったのです。
それを見て取った蔵人は素早く牛鬼に弓矢を射掛けます。
一の矢、二の矢と外し、三の矢が牛鬼の口に刺さり、恐ろしい悲鳴をあげた牛鬼は姿を隠てしまいます。
蔵人は残された血の跡を辿って、定が渕というところで牛鬼が死んでいるのを見つけ
その角を切り取って退治の証拠としました。

蔵人は香西佳清から怪物退治の褒美として渡された
米18俵を根来寺に奉納し、牛鬼の菩提を弔ったそうです。
根香寺には現在まで、その牛鬼の角といわれてる物と、
牛鬼の姿が描かれた魔除けの掛け軸が伝わっています。
どちらも現在は一般公開はされておらず、ネット上に公開された画像のみ見ることができます。
掛け軸の中の牛鬼は、大きな角と鋭い牙、体には虎のような模様とコウモリのような皮膜を持ち、
三本の爪を振りかぶった姿で描かれています。
私としてはその顔立ちはちょっと龍にも似ている気がします。

ちなみに蔵人が牛鬼を見つけた場所である千尋嶽は、崇徳上皇がその景色を気に入り
自分の陵(お墓)はここがいいなあ、と仰っていた場所です。
残念ながら実際には5kmほど離れた白峯寺の隣にある
白峯陵(しらみねのみささぎ)・頓証寺殿に祀られています。
これは四国で唯一の天皇陵と言われている廟所です。

その後、根来寺は戦国時代に兵火に巻き込まれて衰退していましたが、
高松藩初代藩主・松平頼重によって再興されました。

猛将『鬼十河』・十河一存(十河を 『 そごう 』 って読めるの香川県民くらいらしいですよ)

戦国時代、讃岐国三木郡(現・牟礼町各町、木田郡三木町のあたり)を治めていた十河氏の名を
天下に轟かせた存在として十河一存(そごう かずまさ)が居ます。

1532年、一存は細川氏家臣である三好元長の四男として
阿波国の勝端城(徳島県板野郡藍住町勝瑞)に生まれました。
長兄は三好長慶、次兄は三好義賢(三好実休)、三兄は安宅冬康。
全員あわせて三好4兄弟。
ほんとはもうひとり野口冬長が一番下にいるんですけど、資料がほぼ残っていないらしく、
陰の薄さから居なかったレベルの扱いになっています。ひどい。

兄弟の父・三好元長は、元は仕える主だった細川晴元と敵対して攻められ、
一存が生まれる前に自害しており、兄の三好長慶(みよし ながよし)によって
跡継ぎだった十河金光が早くに亡くした讃岐の豪族・十河景滋の養子とされ、十河一存となりました。

讃岐国にはこの頃、西の香川氏・東の安富氏の2大勢力と、
その中間に羽床氏や香西氏といった中小豪族が存在しましたが、
安富氏は細川氏と三好氏の助力を受けた十河氏によって滅ぼされます。
その後、十河氏は他の豪族も従え、讃岐国を支配。
一存は兄の意向を受けて讃岐を治めました。

一存の死後は、一存の次兄である三好実休の次男・存保(まさやす、ながやす)が十河氏を継ぎます。
十河存保は後に讃岐と阿波の両国を支配するようになりますが、
織田信長の配下として降った後、四国統一を目指す長宗我部元親の侵攻を受けるようになります。
信長の死により勢いづいた長宗我部氏の侵攻を抑えきれずにいましたが、
秀吉の四国征伐により長宗我部氏が敗れ、十河氏は命運を繋ぐことができました。
その後は秀吉の九州征伐に参加し、1587年に戸次川の戦いで島津家久と戦いますが、
仙石秀久の失策により存保は討死にします。
生駒親正に保護されていた存保の嫡男・千松丸も1589年に謎の急死を遂げ、
存保のもう一人の子・存英も1615年に大坂夏の陣にて討死。
十河氏直系は断絶してしまいました。

しかし十河氏の傍流は現代まで続いており、末裔である現ご当主・十河延康さんは
高松市十川東町で 『 十河の郷 昭和おもひで館 』 というカフェと、
隣接された資料館を営んでいらっしゃいます。
また、十河さんは2008年に戸次川の戦いの場だった大分市での歴史イベントに招かれ、
2014年には第3回長宗我部まつりに参加されています。
長宗我部まつりは、長宗我部元親初陣像がある高知の若宮八幡宮で行われるイベントで、
戦国BASARAや戦国無双といったゲームの影響から若い人にも長宗我部元親ファンが増えたことを受け、
もっと元親を始めとした当時の武将や歴史について知ってもらおうと始まった
武者行列や鉄砲隊の演武が催されるお祭りです。
祭りのポスターは毎年カプコンと協賛して戦国BASARAの元親が描かれています。

讃岐と阿波の支配権を巡って争った十河氏と長宗我部氏ですが、共に秀吉の臣として降った後は
戸次川の戦いで仙石秀久の失策により存保が討死、元親の嫡男の信親が討死。
大坂夏の陣では存英が討死、元親の四男・盛親が捕らえられ斬首。
両家とも同じように悲劇の運命を辿っています。
400年以上が経った現代で、それぞれにゆかりの人物や場所が交流していると思うと
なんだか不思議な感じがするとともに、ご先祖様方も喜んでくれているといいなと思いますね。

仙石秀久の失策

上でちょいちょい出てきている戸次川(へつきがわ)の戦いにおける仙石秀久の失策。
これのせいで四国民の中で仙石秀久のことを嫌っているひとも多い失策。
長宗我部氏と十河氏が好きな私もちょっとキライです仙石さん。

そもそも戸次川の戦いとは、秀吉に降ることを拒否した島津家久率いる島津軍に対して攻め入った
秀吉の軍による九州征伐の緒戦(最初の戦い)でした。

1578年、島津との戦に負けた大友宗麟から援軍の要請が届きますが、
秀吉は当時、織田信長の次男・信雄と徳川家康による連合軍を攻める戦の最中であり、
自らが九州征伐に出ることはできませんでした。
そのため総指揮を仙石秀久に任せます。
仙石さんは14歳で織田信長配下だった羽柴隊(木下隊)の馬廻衆となり、
それ以来ずっと秀吉に仕えてきた最古参の家臣で、秀吉からとても大事にされていました。

仙石さんは四国攻めで功績をあげて讃岐国10万石の領主を任じられていましたが、
まだ着任したばかりで自軍や他の大名を掌握しきれておらず、
しかも一緒に行くよう命じられたのは、自分が攻めた相手である長宗我部元親とその息子である信親。
更にその長宗我部氏に攻められていた十河存保。
そして元々島津と戦っていて耳川の戦いでボロ負けして秀吉に助力を頼んだ大友宗麟。
いくら九州のお隣の四国から兵を集めたっていっても戦力も人間関係も微妙すぎる。
しかも相手はあの島津。ちょう強い。
島津軍にとっては地元で地の利があり、士気も全く違います。勝てる気がしない。

なので、秀吉は書状で仙石さんに
「 ムリに戦わなくていい。官兵衛が指揮して毛利と小早川が門司を封鎖してるから島津には逃げ場が無いんだし、
  大軍で囲めばすぐ倒せるから。とりあえず官兵衛か俺達が行くまで防御優先の持久戦して時間を稼いどいて 」
と命令していました。
大事な家臣の仙石さんに、とりあえず先陣役の栄誉を与えて、
ついでに四国をまとめているのはこの仙石秀久だと、他の大名に知らしめるつもりだったのかもしれませんね。

ですが、旧暦1586年12月12日(1587年1月20日)、なぜか仙石さんは自ら兵を率いて
戸次川(現・大分県大野川下流)を渡り、島津軍に攻め入ってしまいます。▼ ̄□ ̄;▼<なんでやねん!

まだ盤石とは言い難い秀吉の政権のためにと忠臣として気が逸ったのか、
黒田官兵衛や立花宗茂といった援軍を待たなくてもイケると驕ったのか、
家久軍に攻めこまれ今にも落城しそうだった鶴賀城を救おうとしたのか、
言う事聞かないタイプの四国軍に対し戦功あげて従わせようとしたのか。

もう今となっては仙石さんの内心は分かりませんが、ともかく川を渡ろうとします。
この時、十河存保はまあいいんじゃないの、と賛同し(立場的に反対できなかっただけかもしれませんが)
長宗我部元親・信親の親子はやめとこうよと反対しましたが聞き入れられず。
仙石さん率いる淡路勢が1,000、
十河存保と尾藤知定が率いる讃岐勢が3,000、
長宗我部元親・信親の率いる土佐勢が2,000。
この秀吉軍 約6,000名が1月終わりの真冬の川に突っ込みました。

当然ながら渡河後のその動きは鈍く、それでも島津家久が率いる島津軍1万とぶつかった当初は
家久が焦るほど秀吉軍が押していたといいます。
しかし調子に乗った仙石さんの本隊(第1陣)は島津の得意とする 『 釣り野伏せ 』 に引っかかり、
突出し過ぎたところを囲まれて手痛い反撃に遭い壊滅し遁走。
第2陣だった長宗我部信親の軍と十河存保の軍も囲まれて壊滅、大将の二人は川の中で討死。
第3陣の長宗我部元親軍は反撃する余裕もなく馬を全て捨て、船で伊予国(現・愛媛県)まで敗走します。

島津の釣り野伏せ

釣り野伏せとは、島津義久により考案され、島津の伝統となった戦闘法。
中央・右翼・左翼の3つに軍を分け、中央の部隊が敵正面にぶつかり、
敗走するふりをして敵を誘き寄せ(釣り)、
十分に引き込んでから、隠れていた左右の部隊(野伏せ)が挟み撃ちを行い、
逃げているフリをしていた中央の部隊が反撃に転じて、三面包囲の陣となります。
島津の戦法として有名なのになんで引っかかるの、と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、
目前の兵は今追えば殲滅できる程度の数というのを見せられたら追わずにはいられないんじゃないですかね。
それに少数で敵正面に突っ込む中央の囮部隊がやられたら話にならないこの作戦は
島津の猛将と勇兵によって可能になっているので他では真似できない戦法であり、
作戦を見破るのも難しかったのではないかと思います。
そしてこの戸次川の戦いで仙石さんはそれに引っかかって1軍だけが島津の中に引き込まれ、
後続の部隊とも引き離された上で島津軍の中央・新納大膳と右翼・本庄主悦に挟まれ敗れました。

その後の仙石秀久

秀吉の命令に背いて戦端を開き、挙句に敗戦して大きな被害を出したこと。
軍監(軍の現場監督みたいな役目)なのに、他の武将を見捨てて真っ先に小倉城へ撤退したこと。
小倉城に残存兵を置き去りにして、家臣20名だけを連れて讃岐へ逃げ戻ったこと。

さすがに秀吉もこの失態の連続にに仙石さんを庇うことはできないどころか怒り狂い、
讃岐国は召し上げられ(没収)、高野山に蟄居(謹慎生活)となりました。
まあ、切腹とか処刑にならなかっただけ、秀吉は恩情をかけてくれたと言えるのかもしれません。
こうして仙石さんは失脚した上に、その逃げっぷりから
『 三国一の臆病者 』 と不名誉な二つ名をつけられることになります。
そして讃岐では、仙石さんが失脚したことにより
生駒氏が讃岐を所領として与えられ、ここから生駒家の治世、
そしてその後の松平家の治世に繋がっていくのでした。

しかし仙石さんは後の1590年に小田原攻めで勇猛な槍働きを見せ、
汚名を雪いで信濃国5万石を与えられ大名として復活。
秀吉の死後は上手く徳川家康に取り入り
(と悪いふうに書いてしまうのは私が仙石さんをちょっとキライだからです、
 あんまり悪く書くのもと思って、さん付けをしてるのですが、仙石さん好きな方いらしたらすいません)
その後もずっと藩主として仙石家は続き、明治に入ると子爵位を与えられますが、
昭和に入り後裔の仙石政恭氏が独身のまま亡くなったため、仙石氏直系は途絶えました。

その後の長宗我部氏

戸次川の戦いで長宗我部元親は、溺愛し一心に期待をかけていた嫡男・信親(享年22歳)を亡くし、
その遺体を目にした時は人目も憚らず泣き崩れたと言われています。
そしてその後はそれまでの名君としての評判が嘘のように
家臣の諌言も聞き入れず粛清に走る暗君と成り果て、
次男と三男が健在にも関わらず四男の盛親を後継者として指名し、家中を乱すことになります。

家督を継いだ盛親は、大坂の陣で豊臣方につき、徳川方の藤堂高虎を苦戦させるなど活躍しますが
最後は捕えられて京で引廻しの上、六条河原で斬首に処されました。
盛親の子らも伏見で斬首、あるいは逃げた先の土佐で山内氏に捕えられ処刑され、
長宗我部家としての繁栄は途絶え、土佐は召し上げられて山内氏の所領となります。

現代の長宗我部家のご当主は、元親の末弟・親房の末裔です。
ご当主は長宗我部に関する本を著されたり、武田家、徳川家、真田家、山内家など
他の大名家のご当主と対談なさったりと色々な活動をされていますので、
サイト:長宗我部を是非御覧ください。

三好氏と松永久秀
三好4兄弟

十河一存の兄で、三好4兄弟の長兄である三好長慶。
10歳にして父は謀殺され、幼かったために自分は命を助けられ、
成長してからは弟達と協力して勢力を拡大。
父の仇を討ち、細川氏と六角氏を破り
(ちなみにこの時に細川氏の鉄砲に打たれて亡くなった三好氏の兵が日本初の銃による死者なんだとか)
足利氏を押さえ込み、丹波・河内・大和・和泉・若狭・讃岐といった畿内一円を、
後には播磨・伊予・土佐・若狭を制覇。
足利幕府将軍である足利義輝を追放し実権を握った、つまりほんの一瞬とはいえ天下を取った傑物です。

しかし一度は天下を取ったにもかかわらず、長慶の名前は一般的にはあまり知られていません。
たぶん室町幕府の人気の無さとか、下剋上の果てに精神がボロボロになって滅びるという微妙さとか
いろんな要因があって知名度が低いのかなと思うのですが、ここでアピールしたい三好長慶。
ちょうど今日(2016年12月20日) の『 開運!なんでも鑑定団 』 が
三好長慶の子孫から買い取った茶碗があの曜変天目茶碗か!?という回らしいですし、
ついででいいので覚えて帰ってください三好氏と長慶さんのことを…!
あと松永さんのことも!

香西成資が著した、三好氏を中心とした軍記である 『 南海治乱記 』 には
「 三好長慶は智謀勇才を兼て天下を制すべき器なり、豊前入道実休は国家を謀るべき謀将なり、
  十河左衛門督一存は大敵を挫くべき勇将なり、安宅摂津守冬康は国家を懐くべき仁将なり 」
と書かれています。

【 智謀勇才・天下の器 】長男・三好長慶(みよし ながよし)
信心深く教養があり、策謀を巡らす頭脳も有り、いざという時の思い切りもありました。
ただ残念なことに野望と言えるほどの執着が天下に対して無く、
そして右筆(側近)である松永久秀を信用してしまったのが何よりも大きな敗因な気がする。

一存が急死、義賢が戦死、嫡男の義興も病死。
今が狙い目とあちこちで反乱が起き、心身を病んでいたところに
松永さんの策にハマって(という説がある)冬康を自害に追い込み、
後に冬康の無実を知り、失意と後悔に苛まれ、冬康の2ヶ月後に死亡。
病死とも、狂死とも言われています。
享年43歳。

【 国家を謀るべき謀将 】次男・三好義賢(みよし よしかた。三好実休とも)
三好4兄弟のブレーン。
政治でも軍事でも義賢に任せておけば大体なんとかなった。

大阪府堺市に妙国寺を創建、武野紹鷗に茶道を学び、
兄弟弟子である津田宗達や今井宗久や千利休らとも交流が有り、
名物と称される多数の茶器を所持するなど、文化人としても活躍しました。

中でも、義賢が所持していた茶壺“三日月”は 古い書物に、
利休が 「 天下無双の出来 」 と賞賛した、という記述が出て来るほどの名物でした。
三好氏の衰退の後には義賢が所持していた茶器の多くが織田信長に召し上げられ、
この“三日月”も信長とともに本能寺の変で燃えてしまったそうです。

一存の死を好機と見て、一存が亡くなった翌年に
根来衆の助力を受けて反乱を起こした畠山氏との戦が起こり、
根来衆の鉄砲隊により打たれて亡くなります。
享年37歳。

【 国家を懐くべき仁将 】三男・安宅冬康(あたぎ ふゆやす)
国を抱き締める仁将と呼ばれたとおり、書画・茶・和歌を愛する、兄弟で一番温厚だった人。
淡路国十人衆の一人であり安宅水軍を統べていた安宅治興の養子となり、
瀬戸内海を制して三好政権に貢献しました。

その優しさから長慶の容赦の無い粛清などを諌める内に疎まれたのか、
松永さんが有る事無い事を言ったのか、謀反の疑いを掛けられて長慶の居城で自害。
戦国時代には珍しい仲良し兄弟だったはずなのに。
一存が亡くなって3年、義賢が亡くなって2年後の事でした。
享年37歳。

【 大敵をくじくべき勇将 】四男・十河一存(そごう かずまさ)
三好4兄弟の中でも最も武勇に優れていた一存の猛将ぶりを表すエピソードとして、
戦の最中に負った左腕の傷に塩を塗りこんで消毒し、藤蔓を巻いて平然と戦闘に復帰したというものや、
寒川氏との戦の折には、寒川氏側に弟が居た家臣の、弟とともに戦いたいという意志を尊重して
「 次に相まみえるは戦場ぞ 」
と、寒川側に家臣を送り出し、実際に戦場で兄弟を二人共に一存が打ち取ったというものがあります。
これらの勇猛さから 『 鬼十河 』や『 夜叉十河 』 といった二つ名で呼ばれ畏れられました。

また、一存は、月代(さかやき)を広く四角に剃り込んだ 『 十河額 』 という
独特の髪型をしていたという伝承が残っており、江戸時代には一存の武勇にあやかろうと
若い武士達の間で十河額が流行したのだとか。

有馬温泉に病気療養に向かう途中で落馬し、その傷がたたって亡くなります。
一存の武勇が三好氏の繁栄に大きく貢献していたこともあり、その死が三好政権崩壊の引き金となりました。
一存が亡くなった時、一緒に松永さんが居たらしいんですけど…まさか…(=ФωФ=)
享年29歳。

ちなみに一存は松永久秀とは仲が悪く、兄・三好長慶に対して
松永さんを重用しないように諫言しますが聞き入れられませんでした。
後に松永さんの策謀により三好政権が滅びたことを考えると、一存の諫言は正しかったと言えますね。
なんで仲が悪いひとがわざわざ病床の一存のところに…まさかね…!(=ФωФ=)

松永さんと三好三人衆

三好長慶の死後、病気で早逝してしまった嫡男の代わりに三好義継が家を継ぎます。
義継は十河一存の息子であり、三好本家の養子となって後継ぎになったんですね。
しかし義継が家を継いだ頃には、三好の実権は松永さんと三好三人衆に
握られており、幼い義継は傀儡となるしかありませんでした。

三好三人衆
長慶の死後に三好一族を動かしていた三好長逸・三好宗渭・岩成友通の3人のこと。
松永さんと一緒に13代将軍・足利義輝を暗殺するなど、なかなか思い切りがいい3人。
台頭してきた信長に反発して挑むも敗れ、ついに三好政権は崩壊、三好氏は没落します。

松永久秀
弾正少弼という官位を与えられていたことから松永弾正とも呼ばれます。
また『 乱世の梟雄 』 (きょうゆう=残忍・残虐で強い人物)という二つ名があります。

ずっと仕えていた三好の家を乗っ取り(まあこれは三好三人衆が主にやったことですが)、
三好三人衆と仲違いして1567年の10月10日には三人衆が隠れた東大寺大仏殿を焼き討ちし、
早々に信長に降るも2度も裏切る。
なんなんだ松永さん。気紛れか。

2度目に信長を裏切ったときには、なんで裏切ったのかも定かではなく
(信長側の歴史書にも理由が書かれていない)
「 お前が持ってる茶釜の“古天明平蜘蛛” をくれたら許してもいいよ」
と、信長にしては有り得ないレベルの温情を掛けられますが、その条件を呑まず
「 信長公にはこの首も平蜘蛛も見せないよ。粉々にしてやる、ざまーみろ 」 と返答を届けた後、
居城である信貴山城の天守に火を放ち、“古天明平蜘蛛” を叩き壊して切腹。
めちゃくちゃだ。反抗期か。
この盛大な自害が1577年10月10日だったことから、
大仏殿を焼いてちょうど10年目に罰が当たったのだと噂されたのだそうです。
ちなみに家臣に 「 俺の首と平蜘蛛は火薬で爆破しろ 」 と言い遺していたと伝わっています。
それを誇張して、ドラマやゲームで茶壺に火薬を詰めて爆死したと描かれることがあり、
そのせいで現代では 『 戦国のボンバーマン 』 と呼ばれるようになってしまいました。
でも妙にいい響きですよね戦国のボンバーマン。

あと現代の仇名としては 『 ギリワン 』 というのもあります。
これはゲーム 『 信長の野望 』などで、 主君に対する義理のパラメータ数値(義理値)が
1(最低レベル)で裏切りやすい武将キャラクターがギリワンと呼ばれており、
中でも松永さんの分かりやすいキャラクター性と知名度から、
主に松永さんがギリワンと呼ばれるようになりました。

ここまで書いてきただけでも、なかなかアレなひとだな、とちょっと引いている方も
いらっしゃるかもしれませんが、そのアレなところが
松永さんのいいところだと思うので、他のエピソードもご紹介。

当時の日本一と名高かった名医・曲直瀬道三に性技指南書を書かせて
(一応フォローすると、当時の房中術は、男女和合の際に心穏やかに労りあえば良い気が巡り長生きできる、
 という医術の一種でした。松永さんはただの健康マニアであって、すげえエロいというわけではない、はず)
それを複製して家臣や武将仲間に配ってみたり。
(どんな顔で配ってどんな顔で受け取ればいいの。しかも貰っても困るような。
 でも名医が書いた健康術の本だと思えば嬉しいか。それに週刊誌のコラムとかより
 役に立つことが書いてあるので、成人済みの方は是非)
67歳で自害するまでこの指南書のとおりに励んでいたとか。
(元気すぎる)

1年ほどしか生きられない鈴虫を、大切に飼育して3年近く生かし、
「 鈴虫だって養生してやったら寿命の3倍生きたんだから、
 俺だって養生したら120歳まで生きれるっしょ 」と言ったとか。
(長生きしてたらどうなったのか見てみたかったですけどね)

仲違いした三好三人衆との戦の最中には日本初のクリスマス休戦をしてみたという都市伝説があります。
(ちょうどその頃に敵対していた軍勢の兵士達が、その時だけはと一緒に司祭館に居た、と
 ルイス・フロイスが記していただけで、松永さんは関係ないっぽい)

三好4兄弟の次男・義賢と同じく武野紹鷗に茶道を学んだ文化人であり、
美しい大和言葉を操る風雅なひとだったとか。
堺の会合衆が書き残した日記にも
「 立ち居振る舞いが優雅で容姿は端麗。連歌・俳諧・茶道にも優れた教養ある風流人 」
とめっちゃ褒められています。
(松永さんと付き合いのある人が、他人に読まれることを前提に書いたものなので
 これは多少のお世辞だと差っ引いても、他の書物にも身長180cm超、風貌は良く、と書かれているし、
 すごいイケメンだったのかな…だといいな…という夢が見れますね)

城郭建築にもこだわって、立派な天守閣と多聞櫓を日本で初めて造ってみたり。
(多聞櫓とは、石垣や土塁の上に長屋状の建物を設置して、中で兵士が見張りをしたり、
 敵襲の合図の太鼓を叩いたり、矢を放ってみたりする場所のこと)

幻術士である果心居士(かしんこじ)とも親交があり
「 数々の修羅場をくぐってきた俺をビビらせることができる? 」 と煽ったら
数年前に死んだ妻の幻影を呼び出されてめっちゃビビったり。
(ちょっとかわいい)

毎日決まった時間に頭頂部に灸をすえて中風(脳出血からくる麻痺など)の予防としており、
自害の直前にも灸をすえようとするので、
家臣が 「 この期に及んでまだ養生なさるのですか 」 と思わず呆れると、
「 そりゃなんのための養生かとおかしく思うだろうがな。中風はいやだ。
 もし死ぬ間際になって中風を発症したりしたら、死が怖くて怯えたと思われる。
 そうなったら俺の今までの武勇は無駄になるだろう。それくらいなら
 気持ちよく自害するために灸をすえたほうがいいだろ? 」
と言って、灸をすえた後に自害したそうです。
(最後までマイウェイ)

このように、出自も定かではない家臣がその才覚で大名となり、
なんだか良く分からないこだわりと共に好き放題に生き、
自分なりの美学とともに派手に散った松永さん。
その勝手さが気に入らない、裏切り者だと思われることも多い松永さんですが、
同じくらいそのトリックスター的な魅力からファンの多い武将でもあるので、
ご興味を持たれた方は是非歴史物語本などを御覧ください。

江戸初期・生駒家による讃岐高松藩の治世

生駒家への移管(若様はまだ11歳)

1587年、仙石秀久が失脚し讃岐国主の座を追われた後、
生駒親正が豊臣秀吉から讃岐を与えられて讃岐国主(藩主)となり、
栗林公園の原型を造った佐藤志摩介道益も生駒家の家臣となりました。
大坂冬の陣(1614年)と大坂夏の陣(1615年)を経て、世が大きく変わっていく中でも
生駒家が代々讃岐を治めていましたが、三代藩主・生駒正俊が36歳の若さで急死。
1621年、正俊の長男・高俊が11歳(3歳という説も)という若さで四代藩主となります。

生駒家の後見となった藤堂高虎(孫が心配)

若すぎる藩主・生駒高俊を支えるために、母方の義理の祖父である伊勢津藩主・藤堂高虎が後見に就きます。
藤堂高虎は、身長6尺2寸(約190cm)、体重30貫(約110kg)という
破格の体格を活かして武勇を重ね、戦国の世において8度主君を変えて尚生き残り、
外様大名でありながら家康の信任を受け徳川十七将に数えられたほどの傑物です。
進撃する巨人系の脳筋かと思えばそうでは無く、戦国時代の三大築城名人に上げられるほどの築城上手で、
特に水城の普請は評判が高く、更には日光東照宮の造営などにも携わったというデキる男。

しかし高虎おじいちゃんも当時66歳、自分の藩(三重)を見ながら
はるばる孫のところ(香川)に出向いての執務というのも難しく、
実務のできる腹心や家来を名代として派遣することにします。
(デキる男なイカついおじいちゃんに見張られる少年藩主、
 というのも絵面としてはちょっと面白いですけどね)
(あとついでに言えば少年藩主・高俊は、後に男色に耽るようになり、美少年を集めて舞わせる
 「生駒おどり」に夢中で政務を放り出し、生駒家の没落の元になります)

デキる高虎のデキる家臣・西嶋八兵衛(溜め池をありがとう)

孫を心配する高虎によって讃岐生駒藩に派遣された
腹心の一人が西嶋八兵衛(にしじま はちべえ)。
17歳から高虎に仕え、間近でその築城技術を学んだ八兵衛は優秀な土木技術者でもありました。
高虎の命により政務補助として讃岐にやってきた八兵衛(当時26歳)は、
郡奉行(農民に関する行政・司法のトップ)に就き、実務をこなしていきつつ
湿田改良、新田開発、溜池造成などの殖産興業を行い、藩の財政を確立していきます。

八兵衛さんに感謝

そして八兵衛は、讃岐高松藩で勤める間に溜池の補修や築造を行いました。

450年も破れたままだった満濃池の復旧を始めとして、
・多度郡まんのう町の亀越池
・高松市川部町の小田池
・高松市三谷町の三郎池
・高松市西植田町の神内池
・高松市香川町の龍満池(立満池)
・高松市三木町の山大寺池
・三豊郡高瀬町の瀬丸池
・三豊郡高瀬町の岩瀬池
・観音寺市の一の谷池
などなど、90にも及ぶ溜池の築造や増築に励み、
また、高松市木太町の詰田川の治水工事や新田開発も行っています。

年間雨量が少ない割にいきなりの大雨が降って川は溢れるわ、
かと思えば全く雨が降らず干ばつで作物はダメになるわで
さんざん水に苦しめられてきた讃岐の人々にとって、
八兵衛のこの業績がどれだけの救いになったことでしょう。
こうした功績を讃え、感謝を伝えていくために高松市木太北部コミュニティセンター内に
“西嶋八兵衛頌徳之碑” という石碑が建立されています。

もう一人、讃岐に貢献してくれた技術者・矢延平六(やのべ へいろく)がいるのですが
なんか八兵衛さんに比べて扱いが悪いというか小さいので
ぜひ皆さん平六さんのことも覚えて帰ってください。

生駒騒動(地元社員と本社から出向してきた社員との争い)

江戸時代初期の1640年頃、生駒家の家臣団と、高虎の所から出向した藤堂派の家臣達の
7年に渡る対立と諍いが激化。

生駒家の家臣団 「 お前ら他所から来たくせに調子乗りすぎ。
         俺らこそが讃岐生駒藩の生え抜きの叩き上げ家臣だっつーの!! 」

藤堂派の家臣達 「 あんなショタ好きの頼りない藩主に仕えてる奴らが偉そうに。
         こっちは藤堂家に仕えてたエリートだぞ!俺らが仕事しなかったら
         この藩どうなってると思う、この田舎モンが!! 」

大雑把に言うとこんな感じ。
うーん、大人げない・・・(。・ × ・)
どうにか家内でケンカの火を消そうと頑張ったものの、溝は深まるばかりでどうにもならず。

生駒家の家老・生駒帯刀は
「 いよいよヤバイです。家内が割れてケンカしっぱなしです。
  ついでに高俊様の散財のせいで生駒家の家計も火の車です 」
と江戸の土井利勝らに相談します。

そうこうしている内に一連の騒動が幕府バレし、みんな腹を切るの切らないのと大騒ぎになり、
ついには生駒家は領地没収の上で改易となり、高俊は管理不行き届きの責任をとって
出羽国矢島藩1万石に転封させられてしまいました。
この一連の騒ぎ=生駒騒動により讃岐は一旦 天領(江戸幕府の直轄領)となり、
その後、松平頼重が転封されて新たな藩主となりました。


江戸時代・松平家による讃岐高松藩の治世(この紋所が目に入らぬか)

1642年、生駒家が追い出された讃岐高松藩に、新たな藩主として派遣されてきたのが松平頼重。
頼重は水戸藩主・徳川頼房の長男であり、徳川光圀の同母兄です。
あの水戸のご老公のお兄さん。すごい。

以後、讃岐高松藩は幕府との縁も強い松平家による治世が大政奉還まで続き、
その間に更なる治水工事、新田開発、栗林荘の造園などが進められ、今の香川県の元が出来上がります。
相変わらずの水不足で苦労したり、ちょっと贅沢して大変なことになったり、
幕末の動乱に巻き込まれてみたりと、代々ご苦労されたようです。
いくら家の力があっても領地を治めるって大変なんだな…
という悲哀と共に高松松平家の系譜をご覧ください。

初代藩主・松平頼重(よりしげ)(水戸光圀公のお兄さん)

水戸徳川家 初代・徳川頼房の長男であり、水戸光圀公のお兄さん。
水戸徳川家内の側室とその後見人による権力争いのゴタゴタの結果、水戸藩は光圀が継ぐことが決まり、
それを申し訳なく思っていた光圀や、徳川家からの気遣いのような形で讃岐の藩主となりました。
讃岐に移る際には、頼房や光圀から水戸徳川家伝来の宝物をいくつか贈られています。

1642年、藩主に就いた頼重は当時21歳。
頼重公の高松入りについて来た土木技術者が矢延平六に命じ、上水道を敷設し、
城下町の整備や新田開発など、真面目に政務に取り組みます。
 平六さんについて詳しくは 矢延平六(やのべ へいろく) の項目をご覧ください。

京都から森島作兵衛(後の紀太理兵衛)を呼び寄せ、讃岐の御庭焼きとして
現在まで続く理平焼の伝統を作った他、織物や大和絵の技術者も京都から呼び、
武者小路千家の開祖・宗守が松平家の茶頭として呼ばれるなど、
最新の技術や文化を重んじていたことが伺えますね。
また、讃岐を治めた人々が大事にしてきた栗林荘を頼重も気に入り、
下屋敷(別邸)として手を入れていきます。

藩内の寺社領を安堵、寺社仏閣の立て直し、宝物の寄進などを行ったこと、
そして法然寺を松平家の菩提寺としたことから、法然寺の中興開基とも呼ばれます。
54歳で剃髪して隠居し、栗林荘に住み、庭園としての形を整えていきます。
その後は仏の道に向き合いながら和歌や茶道を嗜んで文化人として余生を送り、75歳で亡くなりました。

丸51葉三葉葵巴紋(葵の御紋・松平家バージョン)

頼重があの水戸の御老公・徳川光圀の同母兄であり、
第2代藩主・松平頼常は光圀公の息子でした。
そのため高松松平家は、水戸徳川家と同じ 『 丸51葉三葉葵巴紋 』 を家紋としています。
徳川将軍家の丸33葉三葉葵巴紋より葉の芯が多く、葉自体が小さく描かれれています。
こちらの画像は玉藻公園に設置されている水場ですが、こんなところにも丸51葉三葉葵巴紋が。
玉藻公園の水場

讃岐高松藩の御庭焼き・理平焼

栗林公園内のお茶屋さんである掬月亭や日暮亭で供されるお抹茶の茶碗には、
理平焼(高松焼)と呼ばれる焼物が使われています。

理平焼は高松藩の御庭焼き(江戸中期以降に、大名・藩主・重臣らが城内や邸内で
窯を築き、陶工を招いて自分好みに焼かせた陶磁器のこと)です。

理平焼の興りは讃岐高松藩初代藩主・松平頼重の頃、約400年前の江戸時代ですね。
頼重がまだ若く、京都嵯峨に暮らしていた頃、
京都の陶工・森島作兵衛を館に招いて陶磁器作りを依頼していました。
そして頼重が高松藩の藩主となってから、京から高松へ作兵衛を呼び寄せます。
そして作兵衛は高松に移り栗林公園に窯を持った際に、頼重より 『 紀太理兵衞 』 という名を与えられ、
理兵衛が頼重の希望によって作る御庭焼きは 『 理兵衛焼 』 と呼ばれるようになりました。

明治になり藩政が無くなると、栗林公園の北門前へ窯場を移転し
『 理兵衛焼 』の名も 『 理平焼 』 と改めました。
理兵衛の代から約400年、その窯と技と名は
理平焼14代窯元 紀太理平に至るまで立派に受け継がれています。
その当代理平はなんと、紀太洋子さんという初の女性窯元。
13代 紀太理平だった旦那さんを亡くされてから、40歳で陶芸を始め、
子育てをしながら陶芸の道に邁進し15年の修練を重ねて14代目を襲名なさった立派な方です。
現在掬月亭や日暮亭で出されている茶碗は主に当代の理平の作ですが、
中には先代である旦那さんの作品もあるのだとか。

使われている土の性質により淡い藤色が出るのが理平焼の特徴です。
季節感を大切にした作品が多く、郷土色豊かで温かな風情があります。
しかしそれだけではなく、京焼の流れを組んだ金蒔絵の美しい絵付けがされた
豪奢な茶道具や花器もあり、実用にも鑑賞用にも楽しめる品といえるでしょう。

香川漆器

『 蒟醤(きんま) 』 と呼ばれる技法で作られる、香川の伝統工芸品である香川漆器。
蒟醤とは、下塗・中塗・上塗と何度も丁寧に塗り重ねた漆の表面を、剣(ケン)と呼ばれる
特殊な彫刻刀で模様を彫り、その彫りの部分に
ヘラや筆などで色漆を象嵌する(埋めて研ぎ出す)技法です。

江戸時代、松平頼重が漆器や彫刻に造詣が深く、漆器を地域の産業として
振興したことで香川漆器の技法が確立したといわれます。
漆器はお手入れすればずっと長く使えますので、ちょっと贅沢な自分用や、
親御さんへのプレゼントなどにも良いと思います。
栗林公園内のショップ・栗林庵にも結構種類が置かれていますので、見ていくだけでも是非。

2代藩主・頼常(よりつね)(光圀公の息子は倹約家)

光圀の長男。
光圀は自分の息子を頼重の養子にして高松藩の藩主に、
頼重の息子を自分の養子にして水戸藩の藩主としました。
黄門様は『 本当は長男である兄の頼重が水戸藩を継ぐはずだったのに 』 と
ずっと気にしていたのかもしれませんね。
余談ですがこの頼常はドラマの『水戸黄門』にもよく登場します。

1673年、頼重の隠居に伴い、22歳で家督を継ぎます。
継いだ時点で藩の財政が結構苦しかった(上水敷設、溜め池の築造、新田開発、技術獲得などの
初期投資が多かった)ので、倹約令を発してなんとか貯蓄を増やします。
また、学問を重要視して儒学を奨励しました。
将軍綱吉に儒学を講義した際には、その深い学識をお褒めいただいたそうです。

栗林荘の庭普請を行い、飢饉対策を兼ねた庭造りとして栗を植えたという記録があります。
また、飢饉・洪水・蝗害で難民となった領民への救済策として
普請作業に雇い、報酬として金銭や穀物を与え、
合わせて領内の珍しい石や木を持ってきた者には引き換えに食料などを与えたといわれています。
この時に領民が持ち込んだ石として、見返り獅子・牡丹石などを今も栗林公園で見ることができます。
この頃には既に掬月亭が建てられていたことが残されている絵図によって分かっています。

不必要なもの、華美なものを慎む『非常倹約令』を発し、3代藩主・頼豊に20万両の貯蓄を遺してから
53歳で隠居し、その同じ年に亡くなってしまいます。

松平家の家宝:太刀・銘 真守造(さねもりづくり)

讃岐高松藩初代藩主・松平頼重が水戸光圀から譲り受けた、鎌倉時代に作られた太刀。
松平家の家宝で、現在は香川県立ミュージアムが所蔵。

源氏の武士・新羅三郎義光から甲斐武田家へ、そして武田信玄・勝頼の愛刀となり、
後に徳川家康のものとなって 『 徳川三名刀 』 の内のひとふりと呼ばれ、
家康から頼房へ、頼房から光圀へ、光圀から頼重へ伝わったという、歴史深い太刀です。

この真守造、将軍綱吉の時代、柳沢吉保(綱吉の寵愛を受け権勢をふるった)によって
借りパクされそうになり、返してくれと何度お願いしても返してくれず、頼常の代になってから
徳川綱條が柳沢氏に返却を命じてくれてようやく戻ってきた、と松平家の記録にはあります。
でもちゃっかり太刀の鎺(はばき・鍔を留めるための金具)を
柳沢家の家紋・四陽菱につながる花菱紋が刻まれた物に取り替えていたあたり、
本当に返す気はなかった、もしくは 『 ちゃんと貰った物 』 だと
吉保の子孫は信じていたことが伺えます。
というのも、柳沢氏に伝わる記録では、
“ 松平家からどうしてもと言われて受け取った ” という記述があるからです。
どちらの記述が正しいのか、今となっては分かりませんが
大事な太刀が今も香川にあることは幸いですね。

3代藩主・頼豊(よりとよ)(災害続きで癒やされたくて栗林公園をバージョンアップ)

頼重の四男、徳川頼房の曾孫。頼常の養子となる。
1704年に24歳で家督を継ぎ、江戸にて56歳で死去。

藩主を継いだはいいものの、2ヶ月近く続いた地震・風水害・
天然痘の流行・大旱魃・4度の洪水・享保の大飢饉と、次々やってくる災害に
藩財政はかなり苦しかったようです。
先代・頼常公が遺してくれた20万両はどこへ…(。・ × ・)
しかし家臣123人のリストラ、藩士の給与カットなどを実施してどうにか乗り切ります。

参勤交代で江戸から戻って讃岐に居る間は、高松城ではなく栗林荘に住み、庭内の施設を充実させました。
どうも政務が苦手で大老に丸投げしていた節があるため、
城で堅苦しく過ごすより、綺麗な庭でも見て癒やされたかったのかもしれませんね。
でも財政難なのに庭に結構お金かけたみたいなのでそれも良し悪しな感じ。

将軍の名代として京都に2度上洛するなど、中央に重用されていたと思われるため、
内政は苦手でも、外交は得意だったようにも思えます。

塩飽水軍とこんぴらさん

塩飽(しわく)水軍である塩飽本島(現・丸亀市本島)の民は、
信長・秀吉・家康から 『 朱印状 』を与えられ御用船方となり、
いずれの大名勢力にも属さない、幕府の水軍ともいうべき立場となりました。

瀬戸内海の海上輸送権をほぼ独占した塩飽水軍は、
1703年頃には立派な廻船を45隻と、天領からの年貢米を運ぶ御城米船を100隻もち、
最終的には総数500隻に近い船を運用していたとか。
そして大きな富と権力を持って大名・小名以外で初めて領地持ちとして認められ、
自らを 『 人名(にんみょう) 』 と名乗るようになります。

この塩飽水軍の繁栄と共に、彼らが信仰した金毘羅権現も有名になりました。
幕府お墨付きの水軍が、金毘羅大権現の旗を掲げて港に寄る度に
「 金毘羅権現のおかげで水難もなく商売繁盛!! 」 ってアピールしてたら、
普通にそこの地元の人達も 「 へえ~、こんぴらさんってスゴイご利益あるんだなあ 」と思いますよね。
そして人気の出たこんぴらさんへ、皆さんこぞって参詣に訪れるようになります。
あの 『 東海道中膝栗毛 』 の作者・十返舎一九も詣でたことがあり、
その時の道中が作品に生かされています。
後の1794年には小林一茶もこんぴらさんに参詣したとか。

1744年からは大坂と丸亀の間を金毘羅参詣のための乗合船が出るようになり、
これが 『 こんぴら船 』 と呼ばれ、あの有名な民謡が生まれます。

金毘羅船々(こんぴらふねふね) 追風(おいて)に帆かけて シュラシュシュシュ
まわれば 四国は 讃州(さんしゅう)那珂の郡(なかのごおり)
象頭山(ぞうずさん) 金毘羅大権現(こんぴら だいごんげん)一度まわれば

こんぴら船が追い風を受けてシュシュシュっと航海して、こうして歌ってくるりと回り踊るみたいに
讃岐は仲多度郡の象頭山にある金毘羅さんまであっという間に廻っていくんだよ~という唄ですね。

またこうしてこんぴらさんが賑わっていた頃、塩飽水軍の本拠地である
塩飽諸島に属する瀬居島(現・坂出市)の沖に 『 かなて 』 と呼ばれた漁場がありました。
この 『 かなて 』はとても豊かな漁場だったものの、
塩飽のものか、讃岐のものか、微妙な領域にあったために小競り合いが多発します。
5代藩主・頼恭の頃、1739年には
「 かなてはウチのシマです!!塩飽水軍が入れないようにしてください!! 」 と
讃岐高松藩が幕府に訴えましたが、あの大岡越前守忠相も勤める評定所によって
評定が行われ
『 今までどおり、双方仲良く漁をしなさいよ。でも11ある釣り場の内の
こっち5つが塩飽ので、あっち6つが讃岐のにしとこうか 』
という判決が1741年に出ています。
ちなみにこの時の判決文は朱印状などと合わせて、今も資料館となっている
塩飽勤番所(丸亀市本島に残る昔の役所のようなもの)に飾られています。

4代藩主・頼桓(よりたけ)(早逝したため治世は4年のみ)

松平大膳家から頼重の養子になります。
1735年に16歳で家督を継ぎ藩主となり、倹約や学問奨励に努めましたが、
4年後、江戸にて勤めている折に20歳で早世してしまいます。

滝宮念仏踊

香川県綾歌郡綾川町滝宮に伝わる、雨乞いと五穀豊穣を祈願する踊りを滝宮念仏踊といいます。
重要無形民俗文化財にも指定されている歴史ある踊り。
道の駅・滝宮にこれを踊っている銅像があるので、お近くに寄られた方はぜひご覧になってみてください。

昔々、888年(仁和4年。平安時代)に讃岐で大旱魃が起こります。
八並びで縁起が良さそうな年なのに残念なことです。
麦は全て枯れ、田植えもやりようがない程の水の無さに、領民の困窮も極まりました。

当時の讃岐国司(讃岐守)であった菅原道真(当時44歳)は
これを憂い、城山(きやま)神社(現・坂出市)にて
七日七晩の断食祈祷という命を懸けた雨乞いをし、その甲斐あって三日三晩の雨が降り、
恵みの雨だと喜んだ民が老若男女を問わず、道真が暮らす国司の邸(現・滝宮天満宮)と
牛頭天王社(現・滝宮神社)の前に集まり、道真への感謝を込めて踊り狂ったと伝わっています。
(踊り狂ったというレベルなので余程のテンションだったことが伺えます)

この後も雨が降らない日が続くと神仏と道真公に雨を乞う踊りをしていた滝宮の民。
そこへ1207年頃に法然上人(浄土宗の開祖)が流刑に遭って
塩飽本島(上でご紹介した塩飽水軍の本拠地)に渡り、
「 南無阿弥陀仏、と何はともあれ唱えなさい。それで救われ浄土に行けるよ 」 という
浄土宗の教えを説いていきます。
そして後に満濃池のほとりに庵を結んだ法然は、赦免されて京に戻るまでの10ヶ月間の間に
あちらこちらの寺や村を訪れては教えを説いたという伝承が残っています。
その伝承の中に 『 法然上人が滝宮を訪れ、
雨乞い踊りに振り付けをして念仏を唱えるように指導した 』 というものがあります。
このことから、この滝宮で行われていた雨乞い祈祷の踊りが
『 滝宮念仏踊 』 と呼ばれるようになりました。

確かに、私がこの当時の農民だったら
「 日照り続きだし道真公に雨をお願いするか 」
「 ていうか法然上人様が 『 ナムアミダブツ 』 って言いながら、
  こんな感じで踊れば雨も降るし浄土に行けるって 」
「 うっそ、マジ?長い念仏じゃなくてナムアミダブツだけでいいの? 」
「 おいおいマジかよ。ありがてえな 」
「 じゃあナムアミ・・・ドーヤだっけ?唄いながら踊るかー 」
と素直に踊るんじゃないかなーと思います。
農民で文字もあんまり読めないのにお経を全部暗記して
しかも踊って息も切れる中で唱えろと言われると微妙ですが、
「 ナムアミドーヤ 」 「 ドーヤドーヤ 」 と言いながら団扇持って踊るくらいなら出来る気がする。
団扇持って飛び跳ねて、皆で合いの手を入れながら踊るってアイドルのコンサートみたいですよね。

更にこの後、讃岐高松藩初代藩主・松平頼重は、道真公の尊い業績は素晴らしいことだと
滝宮念仏踊を大切な神事と定め、粛々と欠かさず執り行うようにというお触れを出しています。

そして毎年の神事として踊っていたのですが、数年の間だけ取りやめられた時期があります。
それは1734年。4代藩主・松平頼桓に代替わりする前年のこと、
滝宮念仏踊をめぐって高松藩領と丸亀藩領の者の間で争いが起き、
それが原因で1742年に再開されるまで中止とされました。
あれかな、今でいう祭りに浮かれたヤンキーの抗争勃発みたいな…警察と役所に怒られて祭り中止的な。
早逝してしまった頼桓様は一度も滝宮念仏踊を見る機会が無かったということになりますね。残念。

このように色々な変遷を辿ってきた滝宮念仏踊が全国の 『 念仏踊り 』 の源流とも言われ、
1000年以上続いて今も毎年8月25日の午前中に滝宮神社で、午後は滝宮天満宮で踊り継がれています。

鷽替え神事

滝宮天満宮では4月24日に 『 鷽替え(うそかえ) 』 という一風変わった神事も行われています。
これは道真公を祀る天満宮で行われることがある神事で、
天の使いとされる鳥の 『 鷽 』 と 『 嘘 』 を掛けたもの。
社で 鳥の鷽を象った『 うそ 』(800円)を頂き、
♪ かえましょ かえましょ かえーましょ、と歌いながら
周囲のひとの 『 うそ 』 と取り(鳥)替えていくことで、
知らず人がついてしまう嘘による穢れを浄化して
『 凶事を嘘にする 』、『 悪しきことを良きことに取り替える 』 という意味があります。
『 うそ 』には鳥くじという景品付きのクジが付いているのでそれもまた
鷽替え神事に参加する皆さんの楽しみとなっています。

5代藩主・頼恭(よりたか)(砂糖を作りたい)

守山松平家から頼桓の養子になり、1739年に29歳で家督を継ぎ、61歳で死去。
相変わらずの水不足、乾燥による火災の多発、雨が降ったと思えば洪水で、
やっぱり当代も財政難。つらい。

この天候に恵まれず麦や米の生産が不安定で年がら年中財政が苦しい讃岐をなんとかしたいと、
讃岐の気候でも安定して生産でき、他藩への売りになるものとして
頼恭は『 塩・砂糖・綿 』 の3つの生産研究を命じました。
下級藩士だった平賀源内を1760年頃に薬坊主に抜擢して薬草栽培を命じ、他に砂糖栽培の研究を行わせ
塩田を新たに切り開き、綿についても増産を目指します。
この3つの生産品はそれぞれ色が白いことから、後に讃岐の特産品 『 讃岐三白 』 と呼ばれ、
天候に恵まれず飢饉や風雨害が起こりやすい讃岐の藩政を支えていく土台になります。

それだけではなく、質素倹約を命じて藩士の給料を減らすのだからと、
自ら一汁一菜の慎ましい生活を送ります。
その藩政に尽くした姿勢から、高松藩の中興の祖として領民に慕われたそうです。

また、博物大名と呼ばれるほどの博識で、参勤交代の時にも動植物を採取していたとか。
自分の学んだことや、讃岐の風土を遺すために
魚の図譜『衆鱗図』、鳥の図譜『衆禽画譜』、草木の図譜『衆芳画譜』などを
絵師に描かせ、平賀源内に編集させたと言われています。
この図譜、絵画として美しいだけではなく、紙を重ねて切り抜き奥行きをもたせて
その形状や質感を表現した、当時としては画期的な浮き彫りの技法が使われています。
香川県歴史博物館にあるので、興味がお有りの方はぜひ。

1744年、儒学者・中村文輔に対して栗林荘内の名所に中国故事にちなんだ名前を付けることを命じ、
その完了をもって、栗林荘の完成としました。
その後、中村文輔に庭園の様子を漢文で書き留めさせた 『 栗林荘記 』 が今も残り、
讃岐の歴史や栗林公園の在りし日の姿を辿る記述として役立っています。
栗林公園では、『 栗林荘記 』に記された当時の姿を追いかけながら、
名所の由来などを解説するという催しが行われたこともあります。

平賀源内と奉公構

平賀源内は讃岐国寒川郡志度浦(現・さぬき市志度)に生まれ、
エレキテルの修理・復元で良く知られる蘭学者・発明家ですね。

元は頼恭に仕えていたものの
「 やっぱりもっと勉強したいんで江戸とか長崎とか行ってきます 」 と讃岐から出ていきました。
しかしその後、源内の頭脳を惜しんだ讃岐高松藩から
「 戻ってきてよ 」とお願いされ、源内も一度は戻ってきれくれたのですが、
2年ほどで 「 やっぱ都会の方が勉強できるんで 」と藩仕えを辞めて出ていきます。
これはこの時代としては結構な反抗で、源内がかなり自由人であったことが伺えますね。

この源内の自由っぷりを許してしまうと
『 社員に2度も辞められるなんて讃岐高松藩は勤めにくいイヤなところ 』 と見られてしまうことから、
藩は「 今後、源内を雇ったりしたら絶対に許さない。マジ絶許。 」 という
仕官お構い(奉公構) 』 を全大名に回覧板のように回しました。
大名の面子を保つのも大変です。

この平賀源内のとんでもない自由っぷりと、新しもの好きで博学な頼恭さま、
源内を超気に入っていた権力者・田沼意次、といったあたりを題材にした
時代物の小説などはとても面白いのでおすすめです。
ちなみに田沼意次に気に入られていたのは頭脳と発想が、であって衆道的なことではない…はず。

池田玄丈と向山周慶による砂糖(和三盆)製造の道

当時国産の砂糖というものはほぼ存在せず、かろうじて琉球や薩摩の黒砂糖か、
ポルトガルからの輸入に頼った白砂糖がお金持ちの口に入る程度で、砂糖を使った甘味は超高級品でした。
お砂糖?なにそれ美味しいの?というひとがほとんどの時代です。

上でもお話したとおり、頼恭は、天候に恵まれず財政難つづきの讃岐をなんとかしたいと、
讃岐の気候でも安定して生産でき、他藩への売りになるものとして
『 塩・砂糖・綿 』 の3つの生産を研究していきます。
中でも砂糖の生産に成功すれば、間違いなく売れる=現金収入確保!

とはいえ、最初からそう上手くいくわけも無く、砂糖の元になる
甘蔗(かんしょ=さとうきび)の育て方、砂糖の精製方法から量産方法まで全てが手探り。
琉球や薩摩の黒砂糖の製法ももちろんトップシークレットで教えてくれるわけもありません。

当初 砂糖の製造研究を命じられたのは平賀源内でしたが、
上でお伝えしたように讃岐を出奔してしまいます。
その研究を引き継いだのが藩医・池田玄丈(いけだ げんじょう)。
池田さんは自分が任された事業が、これからの讃岐にとって
大変に重要なものであると理解していたからこそ、身命を賭して研究に邁進します。
しかし何もかも手探りの状態で、砂糖を大量生産するというのはやはり難しく
日夜の頑張りもたたって18年を掛けた研究の途中で病に倒れてしまいます。

1779年、池田さんは、砂糖研究を手伝っていた弟子の
藩医・向山周慶(さきやま しゅうけい・当時16歳)に、
自分の後を継いで砂糖製法の研究をしてほしいと言い遺して亡くなります。
師匠の最期の願いに応え、向山さんはこの後30年近くをひたすらに研究に捧げます。

向山さんが製糖法を完成させたきっかけは、人の縁と友情によるものでした。

ある時、医術の用事で上京していた向山さんは、薩摩藩からの医学留学生の青年と知り合いになります。
「 ああああもうどうやって砂糖作ったらいいのか分からなくて頭が煮えそう。
 …そう言えばキミは薩摩の出身だよね。砂糖の製法とか知らない? 」
「 いやいや、もしも知ってても言えませんよ。バラしたら切り捨てられますよ 」
「 それもそうだよね…教えたら殺されるんじゃ俺も聞けないよ 」
と諦めていました。

その後 向山さんは用事を済ませて讃岐に帰ったのですが、
京都で大火事があって、その薩摩の医学生も被災し生活に困っていると人づてに知ります。
向山さんは慌てて彼に救援物資と金銭を送り、医学生はその行為に深く感謝することになります。
「 向山さんに命を助けてもらったようなものだから、藩にバレて殺されてもいいから恩返ししたいです。
  これ、薩摩の砂糖製法っす 」
「 えっほんとにいいの?やばくない?大丈夫!!? 」
医学生は国の禁を破って砂糖製法を伝え、向山さんは命を懸けてくれた彼にとても感激しました。
教えてもらった製法を活かそうと早速実践していきますが、
聞くとやるとは大違い、なかなか精製と量産は成功せず苦労していました。

そんな頃、向山さんのお兄さんが、湊村(現・東かがわ市白鳥)の道端で
遍路姿の男性が急病で行き倒れ苦しんでいるのに出くわします。
お兄さんはそのお遍路さんを家まで連れて帰り、医師である弟に診断と治療を頼みます。
数日して元気になったお遍路さんは改めて自己紹介しました。
「 自分は薩摩藩の奄美大島から参った関良助と申します。この度は八十八ヶ所巡りの途中で行き倒れ
  とんだ災難でしたが、お二人に助けていただいて命拾いしました 」
「 いえいえ。元気になって良かったです。でもすぐに旅を再開するのは無理だと思うから、
  しばらくはウチでゆっくりしてったほうが良いですよ 」
「 いやでも何もせずお世話になるわけには 」
「 うーん、じゃあ調子いい時に家の近くのさとうきび畑の手伝いでもしてもらっていいですか? 」
ということで、関さんはしばらくの間、向山兄弟の手伝いをしながら静養し、
すっかり元気になってから薩摩に帰ります。

その後、なんと関さんは薩摩の砂糖製造所に潜入。
「 ほんと向山のお二人にはお世話になったから、これで恩返ししたいなあ。
  つか俺の地元の奄美大島は薩摩の奴隷みたいな扱いで搾取されてるから、仕返しも兼ねて一石二鳥。
  …そういえば周慶さん、もっと丈夫で味の良い種のさとうきびがあればって言ってたな… 」
と思いついてしまった関さんは、技術を盗んだだけでなく、
薩摩のさとうきびの中でも選りすぐったさとうきびの苗を柳の小枝で編んだ弁当箱の中に隠し、
また八十八ヶ所巡礼に行くふりをして薩摩を出て讃岐に渡り、向山さんに苗を渡したのでした。
これ現代で言えば、国家機密の入ったUSBメモリ持って海外逃亡みたいなことですよね。
捕まったら即刻死罪なのに関さんも無茶をしましたね。

こうして手に入れた良い苗からさとうきびを増やし、関さんの助言とお手伝いもあって、
1803年、ついに向山さんは氷糖・紫糖・霧糖(白糖)の製糖法を完成させます。
向山さんはこの砂糖を讃岐高松藩8代藩主・頼儀に献上し、
そもそも製糖の研究を命じた頼恭の墓前で完成の報告を行いました。

しかしその後にも大雨や飢饉によって新しい産業を根付かせる余裕がなく、
一度さとうきびの栽培が潰えかけますが、藩が振興を命じ、
また塩田開発で著名な久米栄左衛門が 『 糖業保護奨励策 』 を上申し、
これを活かすことによって、ついには砂糖の製造を軌道に乗せることができました。
これが今も香川の名産品となっている栄養豊富な白砂糖・和三盆の始まりです。

砂糖の完成後の関さんは、故郷の薩摩に二度と帰ることなく讃岐で90歳まで長生きしたとも、
あるいは薩摩から送られた刺客によって暗殺されたとも言われています。
できれば長生きしたほうであってほしい・・・(=ФωФ=)

また更に年月が過ぎ、向山さんが病に臥せった1792年には
藩の許可を得て砂糖製法を記した巻物を百姓・礒五郎に譲り、後を継がせました。

ちなみに向山周慶と関良助は、二人の功績を讃えた人々により、両名の頭文字を取って
『 砂糖の神様・向良神 』 として向良神社(こうらじんじゃ)に祀られています。

6代藩主・頼真(よりざね)(教育と人材育成は大事)

頼恭の長男。
1771年に28歳で家督を継ぎます。
1780年、享年38歳で江戸で死去。

相変わらずの風水害や、高松の大火などで財政難に陥るも、領民の租税減免を行い救済に努めました。
その後、頼恭の行った改革の影響もあり藩財政は好転します。

侍講(藩儒=藩主に儒学を教える家庭教師のような役目)だった後藤芝山(ごとうしざん)に命じ
高松藩校・講道館を設立。芝山が講道館初代総裁となります。
講道館に学んだ人々の中から、後に数々の政治家や文化人を輩出しています。
教育を重視した頼真の政策が実を結んだといえますね。
また、1871年(明治4年)には隣にあった士族の邸を併合して増築、
小学・中学の2等に大ざっぱに分けて教育を開始、香川県における中学教育の元となります。
現在では講道館跡地に日本赤十字社 香川支部病院が建っています。

里也ちゃんの仇討ち

讃岐高松藩のお隣、丸亀藩に尼崎里也(あまがさき りや)という娘さんが居ました。
なんだかハイカラでいいお名前ですね。
彼女のお話は江戸時代の説話集である『西讃府志』や『常山紀談』などに残されています。

里也ちゃんは両親を早くに亡くし、母の妹である叔母と、その夫である元右衛門の夫婦に育てられました。
父と母は病気で亡くなったと教わっていましたが、彼女が13歳になった頃、
十分に物の道理が分かる年だと判断したのか、叔母夫婦が真実を明かします。

尼崎幸右衛門という弓組足軽の藩士が、丸亀城下の風袋町に
美人で評判の妻・あや と、2歳になる可愛い娘・里也とともに幸せに暮らしていました。
しかし、幸右衛門の同僚である岩淵伝内という男が妻のあやに横恋慕し、
幸右衛門の留守を狙って家に侵入し、あやに襲いかかりました。
あやが必死の抵抗をしている内にが幸右衛門が帰宅。
幸右衛門は妻を助けようと伝内に斬り掛かりますが、逆に伝内に斬り殺されてしまいました。

この時、妻のあやは2歳の里也を連れて隠れていましたが、
幸右衛門を殺して動転し逃げようとしている伝内に向かって
咄嗟に夫の脇差しを投げつけ、肩に傷をつけるものの逃げられてしまいます。
その後あやは妹夫婦の元に世話になりますが、精神的なショックから病に倒れ、三ヶ月後に亡くなりました。
亡くなる前、あやは 「 里也が男子であったなら、父の仇を討つこともできただろうに 」 と
その無念の気持ちをもらしていました。

この話を聞いた里也ちゃんは嘆き悲しみ、それだけではなく、
今まで育ててくれた叔父夫婦に深く感謝を伝えました。
そして岩淵伝内への憎しみを募らせ、いつか必ず父母の仇を討とうと心に決めて成長します。

16歳になった里也ちゃんは、今までお世話になった叔父夫婦に別れを告げ
仇討ちのために江戸に出ることにします。
もちろん叔父夫婦はどうにか止めようとしましたが里也ちゃんの決意は変わりませんでした。
江戸の時代、何事かやらかして郷里に居られなくなった者は皆
人が多く紛れ住みやすい江戸に逃げたそうで、
里也ちゃんも 『 伝内は必ず江戸のどこかに居る 』 と信じたのです。
そこで叔父夫婦はせめてと、江戸に赴任する村瀬藤馬(丸亀藩を治める京極家の侍)に
里也ちゃんを一緒に連れて行ってくれるよう頼みました。

村瀬藤馬のお供をして無事に江戸に着いた里也ちゃんは、村瀬さんが友人の永井(長井とも)源助に
紹介してくれて、すぐに永井の屋敷(麹町表三番町)で住み込み奉公を始めます。
永井源助は新陰流の剣客として名高い旗本であり、剣術道場も経営していました。

奉公してから1年半ほど経った頃、ずっと里也ちゃんの勤めっぷりがあまりに真剣なので、
源助は里也ちゃんに 「 お前はとても良く勤めてくれるが、
どういった経緯でウチに来たんだったかな 」 と尋ねます。
そこで里也ちゃんは父母のこと、仇のことを正直に話し、
必ず仇を探し討ってみせる、という決心の元で勤めも真剣に行っているのです、と答えました。
この話に源助は深く感心し、
「 女だから仇を討てないなどということは決して無い。私の剣術の弟子になりなさい 」と
剣術を指南してくれるようになります。
その日から里也ちゃんは必死で剣術に励み、腕を上げ、ついには免許皆伝に。

永井夫妻は仕事も剣術も真面目に励む里也ちゃんを特別可愛がってくれましたが、
2年ほど経って免許皆伝をもらった頃、源助から
「 この屋敷に居ては仇を探せる範囲も狭くなる。他の家にも仕えてみてはどうか 」と
アドバイスを受け、暇をもらって奉公先を変えながら伝内を探し続けます。
当時の江戸の人口は約80万人と世界でも2番めに多い都市であり、
携帯もTwitterも何も無い時代ですから、聞き込みと自分の目以外に探しようもありません。
仇を探し続けて定住もできない暮らしを10年ほども続けていたある日、
75軒目の奉公先の屋敷でやっと伝内を探し当てます。

そこは本所割下水(現在の両国・北斎通りの辺り)の坂部安兵衛さんの邸宅。
1705年の正月、七草の宴席で、小泉文内という男にお酌をすることになりました。
前々からコイツ妙に怪しい、51歳って年の頃も同じだし…と思っていた里也ちゃん、
(いえもう20代後半なので里也さんですね)彼女は酒席の戯れのフリをして
ちょっと色仕掛けもしつつ文内に過去のあれこれを喋らせました。

酔うと武勇伝を語りまくるウゼエおっさんだった文内は
過去のケンカのこと、人を斬ったことがあることなどをペラッペラ喋ります。
そして 「 鍛えている体が見たいわ 」 とでも言われたのか、
文内は服を脱いで見せ、更には肩の傷について尋ねると
「 昔に人を斬り殺したことがあるんだ。もうとんと昔のことで時効だろうから言うが、
 その頃は讃州丸亀で京極家に仕えていて岩渕という名だった。
 そう言えばその時の原因となった女にお前は目元などが似ているなあ 」
と口を滑らせます。口軽すぎワロタ。
やっぱり犯罪者ってどこかで犯罪自慢しないと気が済まないものなのでしょうか。

こうして無事に仇を見つけ出した里也さんは、その場で斬り掛かりたい気持ちをぐっと堪え、
元雇い主で師匠である永井源助のところに走り、経緯を伝えた所、とても喜んでくれました。
「 今すぐ仇討ちの体裁を整えよう 」 と、里也さんを連れて
丸亀藩を治める京極家の江戸における下屋敷(荏原郡戸越村=現・品川区小山)に走り、
村瀬から京極家へ、京極家から幕府へと仇討ちの申請をしてもらいました。
この時、仇討ちを願う当人が女性であることに下屋敷の藩士たちは
こんな女性が仇討ちなんて大丈夫か、返り討ちに遭うだけじゃないか、と騒然としますが、
村瀬さんと永井さんの口添えと、里也さんの真剣な訴えに絆され、
泣くほど心動かされた下屋敷の藩士達は里也さんに仇討赦免状を発行しました。
その後、幕府の調べによって里也さんの話が真実であり、
文内の正体は岩淵伝内であると分かると、伝内の身柄は拘束され、京極家に引き渡されます。

当時の仇討ちというのは、きちんとお上に届け出て許されて初めて行えるものでした。
・子が親の、弟が兄の、孫が祖父の、家臣が君主の、といった
 直接関係のある下位の者が上位の者の仇を討つ場合のみ可
・1対1の正々堂々の勝負に限る
・女性の仇討ちは少なく、実質的に男性に適用される制度になっていた
基本的な決まりごとがあり、それに添わない者には赦免状は出されなかったとか。
そして赦免状が無いまま仇討ちすると、普通に殺人として罪人になってしまいます。

そしてこの時、丸亀藩主・京極高或までもが藩士から詳しい事情を聞いて感動して情けを掛け、
京極家の預かりとなった伝内をしっかり捕まえておくだけでなく
荏原郡今里(現・東京都港区芝白金台)にわざわざ土地を購入して仇討ちの舞台を整えてくれました。

そしていざ仇討ちの当日。
京極高或公の御前に場が設えられます。
里也さんに縁深い村瀬藤馬を
検視役(仇討ちが成功した場合、殺人ではなく正当な仇討ちだと証明する役)とし、
師匠の永井源助が
助太刀役(討ち手が女性や子供の場合に頼める助っ人。しかし基本的に1対1の決闘であり、
里也さんが殺されそうになった時にのみ助けに入ることができる)となりました。

伝内も仮にも丸亀藩の軍隊にいた武士です。
里也さんは大丈夫か、と皆が息を呑みますが、さすが新陰流免許皆伝の腕前。
最初の一太刀が伝内の肋骨を折り、
二太刀目で頭から胸にかけて袈裟斬りにし、仇討ちが成りました。
(この戦いの流れは本によっても違うようですが)

そして里也さんの見事な仇討ちに大喜びした丸亀藩の皆さんは
「 キャー!! 里也さーん素敵ぃぃぃ!!ウチで働いてえええ!!」とラブコールを送ります。
里也さんは自分を住み込みで働かせて剣術を仕込んでくれた恩人である永井源助から名を貰い、
『 永井局(ながいのつぼね) 』 として京極高或公の姉の侍女として仕え、
後に高或公の姫の教育係という栄誉ある職を任されます。
また、父の代で潰えていた尼崎家の再興を許され、
こちらも恩ある村瀬藤馬の息子を養子にもらって尼崎の家を継いでもらいました。

この里也さんの見事な仇討ちは瞬く間に人々の噂に上り、
全国で 『 美人剣士の仇討ち、親孝行であり女性の鑑である 』 と評判を呼び、皆に尊敬されました。
逆に討たれた岩淵伝内は悪役として落語にも登場するほど悪い意味で名を残します。

後世になって里也さんが父母と暮らしていた風袋町の自宅跡地には
【 烈女尼崎里也宅 】の石碑が立てられ、
現在はその石碑は丸亀市立資料館の前庭に移されています。
お近くにお住まいの方は本を借りがてらぜひご覧ください。

7代藩主・頼起(よりおき)(お金は無くても有りすぎても困る)

頼恭の四男。1780年に家督を継ぐ。

日本全体では天明の大飢饉による大きな被害が出ていましたが、讃岐ではそれほどでも無く、
また頼恭からの藩政改革の甲斐あって藩の財政は好調。

大雨洪水や旱魃の被害を受けた領民に米や田んぼをかなり優しい条件で貸し、
飢饉の対応に苦慮する幕府にも献納金を申し出るほどの余裕があったそうです。
しかし逆にこの余裕が贅沢華美を好む風潮と風俗の乱れを呼び、
また後世の財政難を呼び起こす一因と言われることもあります。

儒学者・柴野栗山と老中・松平定信

柴野栗山は1736年、讃岐国三木郡牟礼村(現・高松市牟礼町牟礼)に生まれました。
八栗山(五剣山)の近くで生まれたので名をそこから取って栗山とたそうです。
老中・松平定信の政治顧問・参謀役として幕府に仕え活躍したことで有名です。

儒学者・後藤芝山に10歳で師事してから8年間 儒学を学び、
18歳で江戸に赴いて幕府直轄の湯島聖堂(後の昌平坂学問所=昌平黌)で主に朱子学を12年間学び、
更に続いて30歳で京都の高橋図南に師事して国学を修めます。
勉強の苦手な私からすると信じられないのですが、物凄い勉強家ですよね。

あと栗山が湯島聖堂に入った三日後に平賀源内も入学したそうです。
栗山の出身地の牟礼町。
そのお隣である志度町出身の平賀源内。
不思議な縁ですね。
「 あんたも讃岐?まじで?讃岐より江戸は雨が多くて教材が湿気るよね~ 」
というような地元トークとか二人でしたんでしょうか。
昔のほうが方言きつくて出身地がモロバレして同郷を探しやすい気がする。
いやでも学問に励む人は方言も綺麗な大和言葉に矯正するのかな。

1767年には徳島藩で儒学者として仕え、翌年の1768年に
は阿波徳島藩主・蜂須賀重喜のお供で江戸に向かいます。
重喜公の侍読(じとう=偉い人に学問を教える家庭教師のようなもの。後の侍講)として江戸で働いたり、
京都で堀川塾を開いて弟子を教育したり、と20年ほど忙しく働いていました。

この20年の間に栗山の見識の広さ、頭脳明晰さは評判を呼び、
ついに1787年、江戸幕府老中として権勢を誇っていた松平定信に
その能力を見込まれてヘッドハンティングされ、幕府に仕えることになりました。
栗山が53歳のときのことです。

栗山は定信が行った寛政の改革について様々な献策を行い多大な影響を与えたと言われています。
中でも寛政の改革に伴う寛政異学の禁を指導するなど大きな役割を果たします。
寛政の改革、日本史でやりましたね。
中身を忘れた方、私と一緒にもう一回記憶を掘り出してください。

・寛政異学の禁
質素倹約と文武を奨励し、儒学のうち朱子学を幕府の正学と定め、
幕府の学問所である昌平坂(しょうへいざか)学問所では
朱子学以外の講義を禁止して武士の思想を統制


・棄捐令(きえんれい)
商人から借りた借金を棒引きにして、田沼意次の時代に大きな財と権力を手にしていた商人の力を削ぎ、
武家の権力を取り戻して封建制の立て直しをはかる


・帰農令
都市に流出した農民に帰農令を出して農村の復興を図る


・混浴禁止
銭湯の男女混浴を禁止するなど風紀のひきしめ


・囲い米(かこいまい)
飢饉対策


・足寄場(にん人そくよせば)
浮浪人対策など

こうした寛政の改革は、大きな変革を伴う、理想の政策でした。
理想を追うには金がかかり、人心の掌握も難しいもの。
6年ほどでこの改革は頓挫し、定信の権勢にも陰りが見えます。

『 白河の清きに魚もすみかねて もとのにごりの田沼恋しき 』

これは当時の政情を揶揄した狂歌です。
あまりに美しい清流では魚は住めず、田んぼや沼のようなちょっと濁りがあるほうが良い、という句に
元白河藩主の松平定信の綺麗な理想を掲げてガッチガチに締め上げる寛政の改革より、
強引で利権と賄賂にまみれた田沼意次の利権重視の政策のほうがまだ緩くて暮らしやすかったなあ、
という意味を掛けたものです。
しかし人々には不満に思われても、この寛政の改革で揚げられた清節な理念は
後の世の武士に、維新の浪士に、更に後の国政に大きな影響を与えています。

栗山は尾藤二洲・古賀精里と共に寛政の三博士(寛政の三助とも)と称され、
また、儒学などの学問を推奨してきた歴代の高松松平家の藩主達もまた功績を讃えられることとなりました。

出身地である高松市牟礼町には 『 柴野栗山記念館 』 が建てられ、
栗山にまつわる書簡や書画、栗山の木像、遺品などが置かれています。
受験のお守り(巻物の形で可愛い)などが売られているので、栗山先生にあやかりたい受験生におすすめ。

8代藩主・頼儀(よりのり)(踏んだり蹴ったり)

頼真の長男。1792年に家督を継ぐ。
藩主になった当初は真面目な性格から倹約を重要視して緊縮財政を行っていたものの、
度重なる災厄にそれどころではない状態に。

江戸の下屋敷が火事になり再建、
幕府に忠誠を示すための屋島神社の建築費の捻出、
仁孝天皇即位の大礼に列席するため京都御所への参賀、
孫の頼胤(後の10代藩主)と徳川家斉の娘・文姫の婚約、
殖産興業のための砂糖製造、塩田開発、etc。

更には藩主だった29年の間に16回もの旱魃に遭っています。
ほんっとに散々ですね。金子がいくらあっても足りない。
ついには江戸・大坂の商人からの借財が50万両(約500億円)を超え、藩の財政はほぼ破綻。

なんか500億円の負債というと、無能な経営者のように思えますが、
もともとの真面目な性格から色々やりすぎた上、
災害時の領民救済や、後世のための殖産興業にお金がかかりすぎたような気がしますね。
頼儀公はその学問好きで優しい性格から善政をしき領民に慕われたと今に伝えられているので
やはり当代の財政難は頼儀公のせいというよりは、災難続きのせいだったという印象です。

こっそり砂糖を食べるための『 あんもち(餡餅)雑煮 』

池田玄丈と向山周慶による砂糖(和三盆)製造の道でお話したとおり、
日照りが多く、農作物の出来が不安定な讃岐の土地で
少しでも安定した財政源として砂糖が作られるようになりました。
その美しい白と素晴らしい味わいに讃岐和三盆糖の評判は非常に高く、
頼儀公の時代、最盛期には全国の砂糖シェアの8割を讃岐和三盆糖が占めていたほどです。

しかしこの砂糖は幕府や他藩への輸出の、ひいては讃岐の財政の要。
やはり庶民には手が届かない、御禁制の品でした。

頼儀公は
「 御禁制だから普段は食べさせてあげられないけれど、お正月くらいはいいでしょう。
 餅の餡に砂糖を入れ、更にその餅を白味噌仕立てのお雑煮に入れ、二重に隠して食べればいいよ 」
と、庶民が砂糖を食べることをこっそりと認めたのです。
※お正月くらいは砂糖を食べたい、と思った庶民が藩にバレないようにこっそり餡を作り、
砂糖が入っていると分からないように白味噌仕立てにしたという説もあります。
こちらのほうがありそうだな、と思うのですが、頼儀公の領民思いな優しさを讃えるエピソードとして
頼儀公なら言いそう、という感じで伝わったのかもしれませんね。

ちなみに香川県では今もこの白味噌仕立ての餡餅雑煮を食べているご家庭が普通にあります。
いりこ出汁…白味噌…あんこ…野菜…ううん?(。・ × ・) と味の想像が難しいかと思います。
私も県外から香川に来て初めて食べた時は地元の雑煮との違いにおののきましたが、
(私の実家は、すまし汁の中に水菜と普通の角餅を入れるタイプでした)
たぶん皆さんが思うより違和感のない、美味しいお雑煮ですよ。
お店で出しているところもあるので、香川に来られたら召し上がってみてください。
四国新聞ニュースサイトに餡餅雑煮についての記事があるのでこちらもぜひ。

矢延平六(やのべ へいろく)について(溜め池をありがとう・2人目)

讃岐高松藩の初代藩主となった松平頼重に従って讃岐にやってきた土木技術者が矢延平六
彼も香川の治水事業に大きな貢献をしてくれています。

平六は頼重の命により、日本で2番目の上水道施設を高松城下に敷設しました。
この上水道施設は配水枡・配水管を地中埋設した、日本初の本格的な上水道です。
その後も数多くの溜池の築造などに尽力し、平六が作った溜池は名のあるものだけでも100を超えるとか。
(小さいのも合わせたら普請に関わった池は400以上になると言われています)

主なものは
高松市香川町の新池
高松市植田町の城池
高松市牟礼町の羽間池
綾川町綾南の北条池
綾川町綾歌の小津森池
丸亀市飯山町の仁池
丸亀市飯山町の楠見池
東かがわ市白鳥町の宮奥池
など。

これほどの功績がある平六さんですが、なぜか阿波国(徳島)に追放されています。
そのあたりも諸説あるようなのですが、
『 命じたのより大きい池を作ってんじゃねえぞ。予算オーバーだ 』 というお叱りで、
あるいは
『 でかく作った池で高松城を水攻めするとか言ってたらしいな 』 という反逆の疑いで。

しかし地元の人達は平六に深く感謝して、徳島で平六を探したり、
見つからなかったのでとりあえず祠を作って平六を祀ったりしています。
その祠が後の新池神社であり、平六こそが
今の高松市香川町浅野のひょうげ祭りの祭神です

それだけ尊敬されて祭神になるくらいなら、そんな悪い人でもなかったんじゃないのー?ということで
働き者の技術者を妬んだ誰かに嵌められたんじゃないのかという気もしてきますね(。・ × ・)
そもそもそこまで予算オーバーになる前に藩の財布預かってるひとが気づくでしょうよ。
技術者の一存で工事発注できてお金が動いたら藩は滅ぶのでは。
あと水攻めできるほど高松に雨は降らない。そんだけ水があったら溜め池つくってない。
もし酔った勢いとかで 『 俺なら高松城も水で流せるぜ~ 』 って言ったとしても
それを誰かが上に告げ口して追放はちょっと有り得ない気がする。

これだけの功績をあげたひとの資料がロクに残っていないのも怪しい。
西嶋八兵衛さんの資料は割とあるようなのに、その後の平六さんだけやたら資料が無い。
八兵衛さんよりずっと長く讃岐に居たはずなのに。怪しい。

生駒から松平に藩主が代わって、その部下や民の中には、
『 松平が連れてきたヤツなんかを認めたくない! 』という気持ちで
その詳細を書き残さなかった、あるいは資料を紛失させた人が
いたりするのでは・・・とか想像してしまいます。

晩年には富熊村(現・綾歌郡飯山町)の辺りに住み、
人生の最後まで溜池の普請をしてくれていたようですし、
水攻めとか考えて追放された人がわざわざ阿波から讃岐に戻ってきて、
また普請してくれるなんておかしくないかなあ、ていうか超いいひとじゃないですかね平六さん。
私なら自分を裸馬に乗せて隣の県まで追い立てた奴らの所になんて絶っ対に帰りませんけどね…!
いくら 「 冤罪だったかも。マジごめんね 」 て言われても、
いきなり仕事クビになって!知らない隣の県に!鞍もついてない馬だけで!追い出された恨み!
私なら水に流せない←心が狭い(ΦωΦ)

というわけで、私の勝手な印象では超いいひと、矢延平六。
意外と香川に住んでて、ひょうげ祭りを知っているひとでも
ご存じなかったりするので、ぜひ覚えて帰ってください、矢延平六。
読み方は 『 やのべ へいろく 』 です、矢延平六。
(しつこいくらい言ってたら覚えていただけるかと)

それでは最後に、平六が晩年を過ごし76歳で亡くなった場所・富熊村(現・綾歌郡飯山町)にある
平六さんを祀っている飛渡(ひわたし)神社の 『 三百年祭遷宮録 碑文 』 をご紹介します。
若い人にも分かりやすく…と思っていたら何かいよいよ軽い文体にしてしまった。
すごく適当な現代語訳なので、きちんとした水利事業と讃岐の歴史と平六さんについてのお話は
南正邦氏による 高松藩の水利計画の考察 をご覧ください。

『 飛渡神社碑 』
石碑の上部のタイトル題字は箔付けのために松平賴壽伯爵にお願いしました★
(賴壽さん=讃岐高松藩、最後の藩主・頼聰の八男。日本競馬会・初代理事長で
 盆栽が趣味。貴族院議員のえらいひと)


飛渡神社は矢延平六叶次(やのべ へいろく きょうじ)を祀っている。
平六さんは讃岐高松藩主・松平頼重に仕え、水利事業で功績を遺した。
地元民はこれをリスペクトし、飛渡の祠を建てた。


そもそも讃岐の国は田んぼと野原が開けた土地だったが、水の利便性に欠けていた。
生駒氏が高松藩主になった時に西島八兵衛さんが48もの池を築造したけど
それでも讃岐の隅々に水が行き渡るほどじゃあなかった。


寛永19年に頼重公が藩主になってからは、田に水を引くための
池溝事業に力を入れ、平六さんをこの仕事に当たらせた。
平六さんは忙しく働き続けること40年を超え、東は大内郡(現・東かがわ市)から
西は那珂郡(現・善通寺市周辺)まで駆け回り、携わった工事は100箇所以上にもなった。


その中でもこの飛渡神社の隣にある仁池(にいけ・丸亀市飯山町)はその功績の最たるもので、
68,398人を動員して慶安元年の6月28日に着工、その翌年の3月25日に竣工した。


仁池の水によって上法軍寺村・富熊村(現・綾歌郡飯山町)から
字足津村(現・綾歌郡宇多津町)に至るまで、水の利を受けた範囲は実に10村1000町にもなる。


中には 「 池、大きくし過ぎじゃね? 」 とディスる人も居た。
このため平六さんは罪人となって藩の職をクビになったが、ほどなくしてまた雇われた。


平六さんはひたすら治水事業にだけ心を砕き、年をとっても独身だった。
そこで弟である平次を養子とし、跡継ぎとした。
その後、初めて奥さんをもらい、太郎右衛門という子供もできた。


74歳になってから病気になり、官職を辞して隠居することにし、
富熊村(現・綾歌郡飯山町)でひっそりと暮らした。
そしてその2年後に亡くなった。貞享2年7月朔日(1日)のことである。


富熊村の村人たちは平六さんの働きと功績をマジリスペクトしていたので、
平六さんを手厚く葬り、元禄10年にいい感じの場所をよくよく考えて富熊村の小字飛渡に祠を建てた。
それ以来、今に至るまでの234年間、祭祀をサボることはなく、
旱(日照り)に困って雨を降らせてほしいと祈れば、必ずご利益が顕現した。平六さんまじパネェ。


最近になって村人が話し合い、この祠の由来を石碑に刻むことにし、
私が平六さんの子孫である縁から、碑に刻む文章を依頼してくれた。
そこで平六さんの子孫である中尾家、十河家、飛渡家に伝わる
古い文献などを探して事のあらましをこうして記すに他ならぬ。


昭和5年11月 学習院 教授 正六位勲五等 古川喜九郎 撰(文章編集したひと)
 (古川さんは綾歌郡出身、学習院の教授を努め『口語文語対照辞典』などの辞典を編纂した)
   従七位 泉田穀穂 書(書いたひと)

と、ここまで書いたところで年末がきて忙しくなったので
また時間があるときに追記していきます。

 良かったら押してみてください♥

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket